文久2年。幕府は清河八郎の献策により、
将軍上洛の警護の為に浪士を募集し、
翌文久3年2月に集められた浪士達は、
浪士組として将軍上洛に先がけて西上。
京の浪士組宿所として壬生村が選ばれ、
新徳寺、前川荘司邸、八木源之丞邸、
南部亀次郎邸に浪士達は宿泊しました。
到着早々清河は新徳寺本堂で演説を行い、
攘夷の魁を宣言し江戸への帰還を提案。
多くの浪士がこれに同意しますが、
芹沢鴨ら水戸派や近藤勇の試衛館派は、
異議を唱えて京都に残留します。
彼らは京都守護職松平容保預かりとなり、
新選組の前身[壬生浪士組]を結成。
前川邸、八木邸、南部邸を屯所として、
不逞浪士の取締と市中警備を行いました。
「壬生屯所旧跡 八木家」。
新選組最初の屯所のひとつ八木邸。
ガイド・抹茶・屯所餅と拝観がセットで、
屯所となっていた屋敷が見学できます。
上手な商売ですが僕のような一人客には、
見学後のお茶休憩はいらないかな。
「新選組屯所遺蹟」碑。
八木邸前にある石碑。
八木邸は芹沢や近藤らの宿所でした。
八木家は天正年間に始まる壬生村の旧家で、
現在も奥の主屋で暮らしており、
15代の血脈を今に残しているようです。
「八木家住宅」。
ここからは撮影禁止。
まず新選組についての説明があり、
その後、芹沢暗殺現場の説明に続き、
最後に自由に見学できるというスタイル。
芹沢が逃げた際に躓いた机や、
惨殺時の刀傷などが残されています。
「御菓子司 京都鶴屋」。
見学後にお茶と屯所餅が出てきます。
先程見学した場所が芹沢ら水戸派の宿所で、
試衛館派はこの建物の場所にあった離れで、
寝泊まりをしていたという。
島原の角屋で宴会を終えて八木邸に帰り、
芹沢、平山五郎、平間重助の他、
土方歳三が加わって飲み直し、
お開きとなって土方は離れに帰りますが、
他の3人は酔い潰れてそれぞれの妾と就寝。
そこへ試衛館派の暗殺者数人が乱入して、
平山の首を落とし、芹沢に斬りつけました。
芹沢は裸で隣の部屋に逃げますが、
躓いて転んだところを惨殺されています。
※平間は逃走して戻らず。
芹沢ら水戸派が一掃された新選組は、
近藤勇の局長一本化体制となり、
池田屋事件や禁門の変を経て発展。
後に西本願寺に屯所を移しました。
■関連記事■
・京都府京都市 壬生寺
新選組が調練場として使用。
・東京都新宿区 試衛館跡
天然理心流の道場試衛館の跡地。
・東京都北区 近藤勇墓所
板橋にある近藤勇の墓所。