京都府京都市 壬生寺

壬生寺は中京区壬生にある律宗の寺院で、
小三井寺地蔵院宝幢三昧寺と称し、
地名から壬生寺と呼ばれるようになって、
いつのまにか正式な名称になったという。

江戸時代にも京都庶民の信仰厚く隆盛し、
参拝客目当てに水茶屋が軒を連ね、
それが後に花街として発展しました。


表門」。
天明大火後の寛政11年(1799)再建の表門
扁額に壬生延命地蔵尊と記されています。
幕末には新選組の調練場として使用され、
剣術や砲術などの訓練が行われました。


本堂」。
本堂は昭和42年の再建。
昭和37年に放火で焼失しており、
その犯人は27歳の女性であったようで、
住む場所が無かった為に境内に住み着き、
賽銭を盗もうとしたところを職員が発見。
警察沙汰にしませんでしたが、
夜になって女は逆恨みして放火しました。
この火災で旧本尊の木造地蔵菩薩半跏像
木造四天王立像などが焼失。
唐招提寺から木造地蔵菩薩立像が移され、
現在の本尊となっています。


阿弥陀堂」。
阿弥陀如来三尊像が安置されるお堂で、
地下に壬生寺歴史資料室が設置されており、
寺宝や新選組の関連資料を展示。
また新選組隊士の墓のある壬生塚は、
ここで受付して入る事が出来ます。

拝観料200円を納めて壬生塚へ。
壬生塚は新選組の墓碑等が集められた場所。

あゝ新撰組 歌碑」。
三橋美智也の「あゝ新撰組」の歌碑。
こういう歌が売れる時代はもう来ないかな?
例えば今売れてる歌手が新選組を歌ったら、
その歌はヒットするのでしょうか?


新選組隊士慰霊塔」。
新選組諸隊士を慰霊する石塔。
京都で活動する新選組同好会が、
結成30周年を記念して建立したもの。


新選組顕彰碑」。
新選組を顕彰する碑。
上記の慰霊碑と同様に新選組同好会が、
結成20周年を記念して建立したもの。


近藤勇之像」。
俳優上田吉二郎が芸歴53周年を記念し、
発起人となってここに建立した胸像ですが、
上田は僕の生まれる前に活躍した俳優。
Wikiを見る限り近藤は演じていません。
個人的に思い入れがあったのでしょう。


近藤勇遺髪塔(右)」、
河合耆三郎源義輝之墓(中央)」。
近藤の遺髪塔と河合耆三郎の墓。
※残念ながら近藤の遺髪塔は取り忘れで、
 中途半端なものしかありませんでした。

元々この遺髪塔のみだったようですが、
後に新選組関連の墓が集められたという。
ただこの墓石の施主は不明のようで、
八木家や壬生寺の人間、又は等の縁者が、
三条河原の近藤の首から遺髪を貰い受け、
ここに収めたのではないかとされます。

河合は高砂の米問屋の息子で、
新選組が壬生浪士組だった頃に入隊。
実家で培った得意の算術を生かし、
勘定方として経理を担当していましたが、
見廻りや実戦にも参加していたようです。
慶応2年2月12日に切腹させられますが、
その理由は隊費50両の不足が発覚した為。
この背景には諸説ありますが、
河合は実家に不足分を用立てる手紙を書き、
切腹までの猶予を与えられましたが、
待てども実家からの送金はなく、
期限を迎えて切腹するに至ります。
最後まで送金は来ないか訪ねていたという。
後に実家から送金が届きますが時既に遅く、
河合の親は激怒して屯所周辺で騒ぎ立て、
当て付けに葬列で屯所前を横切り、
新選組が建てた墓とは別に、
壬生寺にこの立派な墓を建てました。


芹澤鴨 平山五郎之墓(左)」、
阿比原榮三良 田中伊織 野口健司
 奥澤榮助 安藤早太良 新田革九衛門
 葛山武八良墓(右)」。
芹沢鴨平山五郎の墓と新選組隊士合祀墓。
芹沢は水戸浪士で浪士組に参加し、
清河が江戸帰還を宣言するとこれに反発。
平山ら同志や試衛館派と共に京都に残り、
壬生村の前川邸や八木邸の離れを屯所とし、
壬生浪士組を結成して筆頭局長となります。
後に浪士組は新選組として発展しますが、
芹沢派は試衛館派に粛正される事となり、
島原での宴会の後に平山、平間重助
そして土方歳三と共に八木邸で飲み直し、
土方が帰った後に妾と寝ている所を、
試衛館派(正確な実行犯は不明)に襲われ、
芹沢と平山は惨殺されています。
※平間は逃亡して明治23年まで存命。

7名連名の墓は右から、
1)阿比原榮三良(阿比留鋭三郎)は、
 浪士組最初の死亡者。病死、殺害とも。
2)田中伊織新見錦の別称。
 新見は浪士組発足当時は局長でしたが、
 素行が悪く副長に降格。
 隊務を怠り詰腹を切らされました。
3)野口健司は芹沢派でしたが粛正を免れ、
 芹沢暗殺後も副長助勤を務めましたが、
 何らかの理由で切腹させられています。
4)奥澤榮助は新選組伍長
 池田屋事件で重傷を負って後に死亡。
5)安藤早太良(安藤早太郎)は副長助勤。
 池田屋事件で重傷を負って後に死亡。
 野口の介錯を務めたとされます。
6)新田革九衛門(新田革左衛門)も、
 池田屋事件で重傷を負って後に死亡。
7)葛山武八良(葛山武八郎)は新選組伍長。
 新選組の発展と共に近藤が増長した為、
 永倉新八斎藤一らと共に、
 近藤に対する非行五ヶ条会津藩に提出。
 彼らは後に近藤と和解しますが、
 葛山のみが責任を取って切腹しています。

これらの新選組隊士は壬生寺墓地に葬られ、
後の人気に伴い集められたもの。
他の隊士達の墓所は光緑寺にあるようです。

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