金戒光明寺は浄土宗開祖法然の開山で、
浄土宗の七大本山の一つ。
境内は城郭のような構造をしていた為、
京都守護職となった会津藩の本陣となり、
藩兵千余名が起宿していました。
※後に京都守護職屋敷が建設された後も、
駐屯地のひとつとなっています。
「高麗門」。
切妻屋根を乗せた形式は、
本来は城郭に用いられるもので、
寺院の門と使用されるのは珍しい。
徳川幕府は京都で有事が起こった際、
この金戒光明寺と知恩院を砦に使用する為、
幕府主導で城構えとなったという。
高麗門を過ぎて三門へ。
「三門」。
三門は15世紀頃の創建とされ、
応仁の乱で焼失していましたが、
幕府により萬延元年に再建されています。
内部は釈迦三尊と十六羅漢の像が安置され、
楼上の勅額[浄土真宗最初門]は、
後小松天皇の御宸翰という。
訪問時は桜が七分咲でした。
「御影堂」。
開祖法然の御影(坐像)を奉安する御影堂。
昭和9年の火災による焼失しますが、
10年後に再建されたのが現在のものです。
「大方丈」。
こちらも昭和9年の火災で焼失した後、
御影堂と共に再建されたもの。
幕末期に京都守護職本陣となった際は、
松平容保の宿舎となっており、
謁見の間で容保と芹沢鴨、近藤勇が会見。
前庭で新選組の御前試合が行われたという。
金戒光明寺の周辺には広大な墓地があり、
新しい墓や古い墓が無数に並んでいます。
勿論歴史上の人物の墓も多いのですが、
これを全て探し当てるのは時間的に不可能。
墓所MAPでもあれば便利ですけどね。
とりあえず見つかる程度のものを・・。
「崇源院殿一品大夫人昌譽仁淸」。
浅井三姉妹の三女で、
徳川秀忠の正室お江の方の供養塔。
江の母お市の方は織田信長の妹で、
政略結婚によって浅井長政の嫁ぎますが、
長政は信長に反抗した為に滅ぼされ、
市は三姉妹を連れて柴田勝家と再婚します。
しかし勝家も羽柴秀吉に滅ぼされてしまい、
市は勝家と共に自害。
三姉妹は秀吉に保護されており、
長女の茶々は秀吉側室、
次女初は京極高次正室、
江は佐治一成や豊臣秀勝に嫁いだ後、
徳川秀忠の御台所となりました。
秀忠との間にニ男五女を儲けており、
秀忠は側室を置かず仲も良かったという。
※妾と御手付はいました。
江戸城西ノ丸で死去して増上寺に葬られ、
この金戒光明寺に供養塔が建てられました。
「五劫思惟阿弥陀仏(通称アフロ地蔵)」。
文殊塔(三重塔)への階段脇にある石仏。
アフロ地蔵の通称で呼ばれていますが、
地蔵菩薩ではなく阿弥陀仏です。
これはウケ狙いで造られたわけではなく、
螺髪が長いのには理由があります。
五劫は5回宇宙が誕生して消滅する間で、
それ程の長い期間に思惟(考える事)して、
螺髪がこれだけ伸びてしまった為、
アフロのようになったという訳。
まあ珍しいのには間違いありません。
お目当ては会津藩の墓所ですが、
過剰に親切すぎる位に標識があります。
とりあえずこれに従って進みますが、
途中で赤松小三郎の墓を見つけました。
「赤松小三郎墓」。
赤松は上田藩藩士芦田勘兵衛の次男で、
江戸で内田弥太郎や下曽根信敦に学び、
長崎海軍伝習所で航海術等を習得しました。
後に赤松家を継いで赤松小三郎の名乗り、
藩の調練調方、砲術道具製作等、
軍事に関する御用掛を歴任。
横浜で騎兵術や英語を学んだ他、
兵書の翻訳も始めており、
英国式兵学者として名を轟かせてた他、
松平春嶽や島津久光に対して、
議会政治の建白書を提出しています。
討幕の機運の中で内戦回避に尽力しますが、
これを良しとしない薩摩藩の思惑で、
中村半次郎らに暗殺されました。
比較的新しい墓石ですが当時の墓石は、
長野県の上田招魂社に保存されています。
これより会津藩殉難者墓所へ。
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