金戒光明寺周辺の巨大な墓地を通り、
塔頭である西雲院へ。
「西雲院」。
朝鮮出兵の際に連れてこられた青年宗厳は、
滝川雄利の娘の使用人として働きますが、
娘は17歳の若さで病死してしまいます。
人生の無常を感じた宗厳は黒谷で出家。
諸国を巡る修行に出た後に黒谷に戻り、
金戒光明寺第27世了的に認められ、
法然が悟りを開いた紫雲石を授けられ、
当地に西雲院を開山しました。
金戒光明寺を本陣とした会津藩は、
西雲院を殉難した藩士の菩提寺とし、
墓地には会津藩士352名の墓があります。
「一乗院春譽静窓金剛居士(右)」、
「二代目会津小鉄上坂卵之松之墓(左)」。
境内にある初代会津小鉄の墓と、
二代目の上坂卯之松の墓。
会津小鉄(本名上坂仙吉)は、
水戸藩士と大坂商人の娘の間に生まれ、
江戸で博打や喧嘩を覚えた後に京に上がり、
侠客として名を馳せました。
中間部屋の元締大垣屋清八と懇意なり、
会津屋敷に出入りするようになると、
子分と共に京都警護の手助けを行います。
[會]の半纏を着て会津の小鉄渾名され、
池田屋事変や禁門の変にも貢献しており、
尊攘過激派に命を狙われました。
鳥羽伏見の戦いには子分500人を率い、
軍夫として会津藩を助けますが敗北。
会津藩や桑名藩の戦死者を埋葬した後、
遺品を集めて会津若松に届けています。
明治16年に博徒取締りによって逮捕され、
禁固11ヵ月の判決を受け服役。
出獄時は7500人の子分が迎えたという。
明治18年に死去しており、
葬儀には1万3000人が参列しました。
会津小鉄は会津小鉄会として現在も継続。
※現在は7代目に至る老舗暴力団。
「會津藩殉難者墓地」。
赴任中に死亡した藩士達の墓所。
文久2年から慶應3年までの237名、
鳥羽伏見の戦いの犠牲者105名が、
ここに眠っています。
墓地内の様子。
訪問時は桜の季節。
良い時期に訪問したようです。
「會津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑(右)」、
「松平容保像(左)」。
明治40年に建立された慰霊碑と、
令和元年に建立された松平容保の石像。
鳥羽伏見で戦死した藩士105名を慰霊し、
その一人一人の名が刻まれています。
それぞれ人物に物語があるのでしょうが、
まだ会津史は未熟で無知。
そんな中で明保野亭事件の柴司の墓は、
どうにか見つける事ができました。
「會津柴司源次正墓」。
会津藩士柴司の墓。
池田屋事件の残党捜索を行う新選組は、
長州浪士が潜伏するという情報を得て、
会津藩に応援を要請しました。
武田観柳斎ら新選組15名と、
会津藩士5名が明保野亭に出動しており、
柴もその中の一人でした。
明保野亭に彼らが踏み込むと、
座敷の武士が逃げようとした為、
柴は追いかけて背後から後傷を負わせます。
傷付いた武士は、
「自分は土佐藩士麻田時太郎」と名乗り、
土佐藩にこれを確認して麻田を解放。
土佐藩邸に引き取られました。
土佐藩では公武合体を推進しており、
会津藩とも良好な関係でしたが、
柴の行動は職務上の行為で問題無しとされ、
名乗らなかった麻田に落ち度があるとし、
穏便に事を進める方向となります。
しかし麻田の傷が後傷だった事で、
土佐藩は麻田を切腹させてしまいました。
これが土佐藩内で不公平と反発が起こり、
会津藩に対する報復を主張する者も出て、
謀らずも両藩の対立は深刻化。
会津藩はこの事態を苦慮しますが、
問題無しと裁定した柴を処罰出来ず、
藩主容保もこれに頭を悩ます事となり、
この状況に柴は兄と相談し、
兄の介錯で見事に切腹して自裁します。
これにより両藩の衝突は回避され、
柴は会津藩の窮地を救いました。
墓地は上段下段の2区画に分かれており、
下段は比較的すっきりしています。
※上段下段は身分の差ではないようです。
「野村直臣墓」。
会津藩筆頭公用人野村左兵衛の墓。
温厚篤実で和歌を嗜む教養人とされ、
公家や上級武士に対する受けが良かった為、
諸交渉で手腕を発揮しましたが、
慶応3年に病死しています。
もう一枚墓地の写真を。
遥々京都に治安維持の為に派遣され、
故郷に戻ることなく死去した藩士達。
本来ならば当人だけの墓の筈が、
〇〇家之墓となってるものも多いので、
代々の墓をこちらに移したのでしょう。
お寺や保護団体の尽力と思われますが、
墓所は綺麗に整備されていました。
紹介した2つの墓の主は、
禁門の変や鳥羽伏見での戦死者ではなく、
一人は藩を救う為に自ら自刃し、
もう一人は病に倒れています。
大きな事件が起こらなくても人は死ぬ。
それは当たり前の事なのですが、
少し無常感を感じでしまいますね。
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