金戒光明寺墓地の長い石段入口右側に、
津和野藩の藩祖亀井茲矩の墓があります。
「前武州大守中山道月大居士(中央)」。
津和野藩祖亀井茲矩の墓。
茲矩は尼子家家臣湯永綱の長男に生まれ、
同家臣亀井秀綱の次女を娶り、
亀井姓を名乗っています。
尼子家滅亡後に再興軍参加しますが、
しかし強大な毛利家に対抗出来ず、
織田信長の軍勢に加入。
明智光秀や羽柴秀吉の傘下で戦いますが、
再興軍の総大将である尼子勝久は、
上月城の戦いで毛利家に滅ぼされた為、
茲矩はその残党を吸収しました。
以後は秀吉の配下となって、
鳥取城攻めの戦功で鹿野城を拝領。
秀吉が天下統一を果たすと、
因幡衆として銀山経営や治水事業を行い、
朝鮮出兵にも参加しています。
※朝鮮では虎狩りも行っており、
これを秀吉に送っています。
秀吉の死後の関ケ原の戦いでは、
東軍に属して鳥取城を攻略。
戦後の加増で鹿野藩を立藩し、
その後は朱印状を幕府より得て、
南蛮貿易を積極的に行いました。
早くから海外に目を向けていたとされ、
秀吉が中国大返しで姫路城に戻った際、
出雲半国を与えられる予定だった茲矩は、
代わりの恩賞地を聞かれると、
琉球を賜わりたいと答えたという。
これを聞いた秀吉は筆を取り、
扇子に[亀井琉球守殿]と書いて与え、
後に琉球攻略の許可を得ています。
※これは島津家の妨害により撤回。
茲矩は慶長17年(1612年)に死去し、
家督は次男の亀井政矩が相続。
坂崎直盛の改易後に津和野藩に転封され、
以後亀井家は津和野藩主として続きました。
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