津和野藩主亀井家の墓所は、
城下北側の乙雄山中腹にあります。
「永太院」。
亀井家の菩提寺永明寺の末寺で、
亀井家墓所はこの永太院の奥。
境内には樹齢百年以上とされるシダレザクラがあり、
春には見事な花を咲かせるそうです。
「西家墓所」。
亀井家墓所へ向かう石段の途中にある西家墓所。
西家は代々津和野藩の御典医を務める家柄でした。
西周はこの家の出身で、
江戸に出て洋学を学び、幕命でオランダへ留学。
榎本武揚、澤太郎左衛門らと共に、
法学、哲学、経済学、国際法などを学びます。
慶応元年に帰国すると、徳川慶喜の側近として活躍。
維新後、徳川家が開校した沼津兵学校の初代校長となり、
明治3年より明治政府に出仕。軍政の整備に努めました。
以後は公職の傍ら哲学者、啓蒙思想家として活躍しています。
西周の墓は東京の青山霊園にあり、ここにはありません。
「亀井家墓所」。
石段を登った先にある亀井家の墓所。
歴代藩主およびその親族の墓石が立ち並んでいます。
明治以降、東京にあった墓石もここに移築されたようで、
墓域には71基もの墓石が建っていました。
とはいえ、そこまで所狭しといった感じではありません。
「中山道月大居士(始祖 茲矩公)」。
藩祖亀井茲矩の墓。
藩祖の墓は、普通他より大きいものですが、
こじんまりとした自然石の小さなお墓です。
元々は毛利元就に滅ぼされた尼子家の家臣で、
山中鹿介らと共に尼子勝久を擁し、
尼子再興を目指しています。
織田信長が台頭すると傘下に入って毛利家に対抗し、
羽柴秀吉や明智光秀の配下となって活躍しますが、
勝久や山中が毛利に討たれ、尼子再興は潰えてしまい、
その後は尼子再興軍を吸収し、秀吉の家臣となりました。
関ヶ原の戦いでは東軍として戦い、
その功績で鹿野藩3万8000石の藩主となっています。
「悟隻浄頓大居士(初代 政矩公)」。
鹿野藩亀井家2代藩主でしたが、
津和野藩主坂崎直盛が千姫事件で改易になると、
津和野藩へ加増転封となり、
亀井津和野藩初代藩主となっています。
徳川秀忠の信任厚く、姫路藩への加増の話もありましたが、
30歳の若さで急死してしまい実現しませんでした。
「従二位勲三等亀井茲監墓」。
墓所の一番奥にある11代藩主亀井茲監の墓。
藩士の減俸、特産品の増産奨励などで財政再建を行い、
また江戸下屋敷を売却して藩士教育資金に充てるなど、
名君であったと伝えられています。
第二次長州征伐には消極的で中立の立場を取り、
長州軍の領内通行を許しました。
津和野藩は新政府に多くの人材を送り出し、
自らも参与として新政府に出仕。
主に教育関係、宗教関係で手腕を発揮しています。
明治18年死去。
「亀井茲監顕彰碑」。
墓石の傍らにある顕彰碑は森鴎外の撰。
茲監が正二位を追贈された際に建てられたもの。
茲監の隠居により後を継いだ次代の亀井茲明は、
茲監の功績が認められて伯爵に陞爵。
日清戦争が起きると、日本初の従軍カメラマンとして、
陸軍大将大山巌率いる第二軍に従軍し、
300枚にもわたる戦場写真を撮影して、
明治天皇に献上しています。
■関連記事■
・島根県鹿足郡津和野町 津和野城跡
津和野藩亀井家の居城跡。
・島根県鹿足郡津和野町 殿町通り
津和野城下町は、武家屋敷の町並みが残る小京都。
・島根県鹿足郡津和野町 太皷谷稲成神社
日本五大稲荷のひとつ。