津和野城は、津和野盆地にある霊亀山に築かれた山城で、
鎌倉時代に地頭吉見頼行が三本松城として築城したもの。
以後、吉見氏14代の居城となり戦国時代には、
大内義長と陶晴賢に攻められますが、
籠城戦の末にこれを防いでいます。
大内、陶の主力が三本松城に釘付けとなっている間に、
毛利元就は安芸国の掌握を進め、
間接的に毛利家の覇業に貢献しました。
厳島の戦いで元就が勝利すると、吉見家も傘下に入り、
以後も吉見家が三本松城を居城としますが、
関ヶ原の戦いで、毛利家が防長2国に厳封されると、
吉見家も津和野を退去して萩に移住しています。
津和野には坂崎直盛が3万石(後に加増)で入り、
三本松城を石垣を多用した近世城郭へと改修。
すでに戦国の世は終わりかけていましたが、
長州藩ににらみを利かす意味もある為か、
津和野城は戦闘的な要塞となりました。
※坂崎家入封以降は津和野藩と呼ばれています。
坂崎直盛は大坂夏の陣にも出陣し、
家康の孫娘で豊臣秀頼の正室千姫を、
大坂城から救出するという功を立てましたが、
その後の千姫の処遇をめぐる対立から、
直守は千姫を奪う計画(千姫事件)を立てたとされ、
それが露見して自害、若しくは家臣に殺害されてしまい、
坂崎家は断絶することになります。
代わって鹿野藩より亀井政矩が4万3000石で入城し、
以後、11代にわたり亀井家が続きました。
亀井家の治世の時に山麓に御殿や藩庁が建てられ、
城下町も整備されていますが、
正確な築城時期は不明のようです。
「津和野城藩庁跡」。
県立津和野高等学校の北側のグランドは、
山麓の藩庁及び藩主御殿があった場所。
この門のある場所に藩庁の正門があったらしい。
現在の門は亀井家家紋「隅立四つ目結」を、
モチーフにして造られたようです。
「馬場先櫓」。
津和野城の現存建屋のひとつ。
津和野藩邸表門左側の隅櫓で、
近くに馬場があったことからそう呼ばれました。
重層入母屋の本瓦葺き。外部漆喰仕上げの櫓です。
石州瓦の城遺構は珍しいですねぇ。
「嘉楽園」。
藩主御殿の庭園の一部が公園として整備されています。
公園名は、藩校養老館の初代学頭山口景徳の命名との事。
公園内には、藩主の頌徳碑など記念碑が建てられています。
「亀井茲監頌徳碑」。
亀井茲監は、津和野藩第11代藩主。
江戸下屋敷を売却して藩校養老館の規模を拡張するなど、
藩士子弟の学問を推奨。
幕長戦争では、中立を保って長州軍を領内通過させました。
以後、薩長陣営に与して新政府の参与に任じられ、
神祇事務局判事、議定職神祇事務局輔、
神祇官副知事などを歴任します。
この頌徳碑は、頭頂部に胸像を配したものですが、
実は初の近代銅像大村益次郎像より早く造られており、
胸像ながら「隠れ第一号」という説もあります。
「山邊丈夫君頌徳碑」。
山辺丈夫は元津和野藩士で、東洋紡の創始者。
旧藩主の嫡子亀井茲明のイギリス留学に随行し、
経済学や保険学、機械工学を学んで明治13年に帰国。
渋沢栄一や藤田伝三郎、松本重太郎などの援助により、
東洋紡の前身大阪紡績株式会社を設立しました。
「子爵福羽美静先生之碑」。
津和野藩士福羽美静の顕彰碑。
福羽は事故で体が不自由であった為に学問で身を立て、
藩命で京都に出て国学者大国隆正に学び、
帰藩後は養老館で教授を務めました。
その後、周旋方となって再び京都へ赴きますが、
八月十八日の政変の際に七卿と共に西下。
帰藩して藩論を長州支持にまとめています。
維新後は、神祇制度確立に尽力。
元老院議官、貴族院議員などを歴任しました。
「贈従四位大國隆正翁之碑」。
大国隆正は津和野藩の国学者。
平田篤胤、村田春門に国学を学び、
その他、絵画や詩、蘭学や梵学なども習得。
古事や皇朝学、五十音図に関する諸書を研究。
その後は脱藩して京都で国学(本教本学)を講じ、
各藩の藩校や藩主、宮中にも招かれています。
11代藩主亀井茲監の許しを得て藩に復帰。
養老館で教授を務めました。
嘉楽園には石碑が建てられているだけではありません。
「物見櫓」。
現存する建屋遺構のひとつ。
元々は今の津和野高校の正門付近にあったようで、
嘉楽園内に移築されたもの。
山麓より山頂の城郭へ向かいます。
山頂へは津和野観光リフトを使用。
太鼓谷稲成神社の参道の途中にあります。
※登山道もあるらしいです。
約5分のリフトで山頂へ。ここから山道です。
「出丸」。
坂崎氏時代に増築された曲輪で、
家老浮田織部の名を冠して「織部丸」と呼ばれました。
石垣修理の為、立ち入りできません。
「史跡 津和野城址」の碑。
出丸と本城の間にありましたが、
写真は逆光により文字が写りませんでした。
「史跡 津和野城址」の碑より上り道を登り本城へ。
ここから天空の城です。
「東門跡」と「三段櫓跡」。
この東門が津和野城の大手門。
三段の石垣は、それぞれ平屋の櫓が建てられていて、
見る方向によっては、三重櫓に見えたという。
「天守台」。
手前の一段低い場所に天守閣が建てられていました。
ここに三層の天守が建てられていましたが、
天守が一番高い位置ではないのは珍しいですね。
「三十間台」。
津和野城の最高所。津和野の城下が一望できます。
「太鼓丸」。
三十間台の北側の一段低い位置にあります。
この名前から察するに・・・。
やはり、太鼓谷稲成神社が遠くに望めます。
だから太鼓丸なんですね。
太鼓丸より東の山脈を望む。
津和野城は兵庫県朝来市の竹田城と並び、
天空の城と称されるだけの絶景を誇ります。
わざわざペルーまで行かなくても、
マチュピチュみたいな城は日本に沢山ありますね。
「三の丸南部」より「人質櫓跡」と「三十間台」。
人質櫓の石垣は津和野城で最も高い石垣。
三の丸南部には南門があり、
尾根を南に下り中荒城(吉見時代の出城)に続きます。
津和野城は、戦国時代の三本松城と江戸時代の藩庁の、
山頂と山麓の二つの顔を持った城。
しかも江戸時代を通じて、
山頂の城もしっかりと使用されていたようで、
明治7年に取り壊された事がなんとも惜しい限りです。
幕末の津和野藩は、隣藩だけあって長州藩に好意的であり、
幕長戦争後は、堂々と長州藩と行動を共にするようになり、
新政府にも人材を送り込んでいます。
その輝かしい栄光に泥を塗る事件が「キリシタンの弾圧」。
浦上四番崩れにより信徒は流罪となり、
流刑先の一つに津和野が選ばれました。
津和野には153名が流刑となっており、
流刑者は乙女峠の光琳寺で拷問を受け、
そのうち36名が殉教しています。
現在、拷問の舞台であった光琳寺は廃寺となり、
跡地には乙女峠マリア聖堂が建てられており、
聖母マリアと36人の殉教者を偲ぶミサが、
毎年5月3日に行われています。
【津和野藩】
藩庁:津和野城
藩主家:亀井家
分類:4万3000石、外様大名
■関連記事■
・萩市 萩キリシタン殉教者記念公園
津和野藩と同じく信徒が流刑されて拷問されています。
・長崎県長崎市 お告げのマリア修道会墓地
許された信徒達は長崎に帰って信仰を続けました。
・島根県益田市 扇原関所跡
浜田藩との藩境。浜田藩士岸静江が戦死しています。