慶応2年に幕府は第二次長州征伐を開始。
長州藩領に四方から侵攻します。
※小倉口(福岡県)、芸州口(広島県)、
大島口(周防大島)、石州口(島根県)。
絶体絶命の状況で幕府軍を迎え撃ちますが、
この戦いで長州藩は幕府軍に勝利。
そのひとつである石州口の戦いでは、
こんながありました。
長州藩や浜田藩と隣接する津和野藩は、
この戦いで中立の立場を取っており、
長州藩兵の津和野領内への通過を許し、
長州藩は無傷のまま浜田藩領に向かいます。
浜田藩は津和野藩との藩境扇原関所を固め、
浜田藩士岸静江がこれを守備。
岸は医光寺に陣を構える福山藩に、
援軍を要請していますが、
戦意の薄い福山藩兵は援軍を出しません。
長州藩の大群が押し寄せる中、
岸は部下を退却させて唯一人関所に残り、
長州藩兵に撃たれて討死しています。
大群と対峙しなすすべもない状況でしたが、
関所を守る命令を受けていた岸は、
一戦も交えず退却することを恥じ、
しかも部下の命も惜しみ、
唯一人で長州藩兵の大群に挑みました。
長州藩兵も彼の武勇を称え、
彼を手厚く葬った後に益田に攻め込みます。
この逸話は司馬遼太郎の小説[花神]で、
ドラマチックに描かれました。
扇原関所跡は益田市多田という場所にあり、
益田市の複合文化施設グラントワより、
車で5分少々行くとあります。
「濱田藩岸静江墓」。
道路脇に岸静江の墓があります。
長州藩は近くの西禅寺の住職に頼んで、
岸の埋葬を依頼し墓碑建立の醵金しました。
岸静江は靖国神社にも合祀されているという。
墓所の向かいのトンネルから扇原関所跡へ。
少し距離はありますが、
道中は街道の雰囲気が残っています。
「岸静江戦死之地」。
ここが扇原関門があった場所。
扇原関門は山陰街道の関所で、
浜田藩が旅人の通行を監視していました。
碑の後ろの石垣が遺構として残ります。
関所跡より津和野方向を見る。
この細道より長州藩の大群が押し寄せました。
これ程狭いと長州藩側からは唯一人といえ、
捨て置く事は出来なかったでしょう。
津和野側より関所方向。
唯一人関所に立つ岸静江は、
長州藩兵の目にどう映ったのでしょうか?
山陰の小藩(中藩)であった浜田藩に、
部下の命を惜しんだサムライがいたことは、
もっと世の中に知られるべきですね。
2022/01/17写真の差し替え及び記事修正。
■山陰街道の宿場町
■関連記事■
・島根県益田市 萬福寺・医光寺
浜田藩・福山藩が陣を構えた場所。
・島根県浜田市 観音寺/岸静江墓所
浜田市にある岸静江の墓所。
・島根県益田市 机崎神社
関所を突破した長州勢が集結した神社。
・島根県浜田市 浜田城跡
浜田藩は城を自焼させています。