長崎市内の墓地はなんというか辛気臭くない。
一般的(?)には墓地っていうものは、
オバケが出そうに感じられるものですが、
まったくそういう感じはありません。
※個人的意見です。
そう感じられる原因は数点あるのですが、
まずは墓地が綺麗に整備されているという事。
平地が少ない為に住宅と墓地が密接しており、
その為に荒れた墓地というのが見られない。
ほんとに綺麗に整備されています。
また全ての墓石が比較的大きい事と、
長崎特有の金文字の碑文。
墓域はコンクリートで固められているし、
日当たりの良い場所にあります。
そして十字架をあしらった墓石も多い。
全てではないでしょうが、
そういう墓地が多い気がします。
今回訪問した墓地もそういう感じでした。
「こうらんばキリシタン墓地」。
ここはお告げのマリア修道会の墓地で、
キリスト教特有の墓石が並んでいます。
お告げのマリア修道会とは、
カトリックの女子修道会で、
マルク・マリー・ド・ロ神父らが、
長崎の赤痢大流行への救護活動を始めた際に、
それを補助した岩永マキら4人の女性が、
共同生活を始めた女部屋を起源とします。
彼女達はド・ロ神父の救済活動に志願し、
家族達への赤痢感染を防ぐために家に帰らず、
高木仙右衛門宅の納屋に寝泊りして、
長崎各地へ救済に向かいます。
両親を無くした孤児を引き取ったり、
その養育費捻出の為に布製品を作ったり、
薬や日用品の行商を行いました。
次第に活動に感銘を受ける女子も増え、
ド・ロ神父は私財を投じて孤児院を建てます。
それの孤児院は子部屋(現浦上養育院)、
共同生活の場は女部屋と呼ばれました。
岩永マキは孤児達を自分の籍に入れて養育。
養子となって岩永姓となった人数は、
約200人にも及び、
養育された人数は920人以上という。
「お告げのマリア修道会合葬墓」。
墓地にある修道女達の合葬墓。
病人や孤児達に尽くした彼女達は、
その生前の共同生活と同じく、
ひとつの墓の中で眠っています。
創始者岩永マキも他と何ら変わりなく、
墓誌に名が刻まれているのみでした。
寒ざらしのツルこと岩永ツルの名も。
浦上四番崩れにおいて弾圧が行われ、
信徒らは津和野、萩、福山へ流罪となります。
各地で棄教を迫る拷問が行われましたが、
中でも有名なのが萩に移送された岩永ツルで、
冬に腰巻き1枚の裸にされたうえ、
野外で拷問石に正座らされ、
夜になるとそのまま牢へ帰されて、
翌日また正座させられる日々を過ごしました。
大雪となっても同じ事が毎日繰り返され、
18日目に雪の中に倒れますが、
それでも棄教せず役人は改宗を諦めたという。
ツルはキリスト教解禁後に浦上に戻り、
お告げのマリア修道会に入信し、
※当時は十字修道会と称しています。
生涯を伝道に捧げました。
ツルも岩永の姓という事から、
岩永マキの養子となっていたようです。
「ドミニコ高木仙右衛門之墓」。
隠れキリシタンの指導者高木仙右衛門は、
代表者として長崎奉行所に出頭し、
自らがキリシタンであると表明します。
これによって高木ら信徒らが捕らえられて、
棄教を迫る拷問を受けますが、
他の信徒が拷問に耐えかねて棄教を誓う中で、
高木のみが棄教に従いませんでした。
長崎奉行河津祐邦は高木を呼んで理解を示し、
法で許されていないから表立った信仰をせず、
心の中のみで信仰するように諭しますが、
高木はこの提案にも応じなかったので、
河津は高木に帰ってよく考えるようにと伝え、
家に帰しています。
その後に幕府の崩壊により河津は長崎を脱出。
新政府によりキリスト教禁止が確認された為、
信徒らは再び捕縛されて流刑となり、
高木は津和野に流されました。
そのまま棄教せず明治6年に許されて戻り、
以後は伝道に生涯を捧げています。
綺麗に整備された墓地には、
信仰を捨てなかったキリシタン達の、
苦悩と涙が隠されているようです。
■関連記事■
・萩市 萩キリシタン殉教者記念公園
浦上四番崩れの殉教者たちの記念公園。
・島根県鹿足郡津和野町 殿町通り
高木仙右衛門は津和野に流罪。
・長崎県南松浦郡 鯛ノ浦六人斬り関連史跡
上五島で発生したキリシタン殺害事件。