浦上四番崩れにおいて捕縛された信徒らは、
萩、福山と共に津和野にも移送され、
明治元年に指導者ら28名が、
その翌年には家族ら125名が、
津和野にやって来ました。
津和野藩は信徒らを乙女峠の光琳寺に幽閉。
改宗への説得が行われましたが、
信徒らは改宗に応じなかった為、
拷問によって改宗させる方針が取られます。
津和野藩による拷問は萩や福山に比べ、
非常に苛烈を極めていたとされており、
その結果36人もの殉教者を出しました。
「乙女峠」。
信徒らが幽閉され拷問を受けた場所で、
乙女峠は領主の娘が埋葬された事から、
領民らに呼ばれていた通称であったという。
「マリア聖堂」。
跡地に建つマリア聖堂は、
昭和23年に建立されたもので、
聖母と36人の殉教者に捧げられたもの。
毎年5月3日の乙女峠まつりでは、
約2000人が訪れてミサが行われているという。
「殉教者安太郎とサンタマリアの像」。
殉教者のひとり森安太郎は、
裸で屋外の三尺の牢屋に押し込められますが、
夜12時になると毎夜聖母マリアが現れ、
優しく語り掛けて励ましたという。
安太郎はこれを髙木仙右衛門と、
守山甚三郎に語っており、
押し込められた明治2年1月7日より、
殉教した同19日の夜まで、
聖母マリアは毎晩出現したという。
「乙女峠の聖母とその殉教者」。
殉教者全員が描かれたレリーフ。
彫刻家の高木基美子作の十字架。
彼女は髙木仙衛門の玄孫とのこと。
乙女峠から約600m山道を越え至福の園へ。
この山道は隣の蕪坂への道ですが、
その行程にはレリーフが設置され、
キリストの受難の様子が描かれています。
「千人塚」。
南無地蔵大菩薩と刻まれた碑のある塚で、
天保の飢饉での犠牲者を埋葬した塚。
隣のお堂にはお地蔵様が祀られています。
更に奥へ行くと至福の園。
「為義而被害者乃真福(至福の園)」。
殉教者の遺骨が埋葬された場所。
殉教者は千人塚付近に埋葬されてましたが、
明治24年にヴィリヨン神父と、
殉教者の遺族や関係者が拾い集め、
改めてここに埋葬されたという。
埋葬者は以下36名。
アントニオマリア深堀和三郎
ジョアンバプチスタ森安太郎
ジョアンヨゼフ岩永清四郎
ミカエル藤田清次郎
イナシオ松岡孫四郎
ミゲル山口熊吉
パウロ深堀忠四郎
マリナ片岡さめ
ドミンゴス岩永甚三郎
ドミンゴス岩永吉三郎
パウロ守岡三右衛門
サビナ藤田わび
カタリナ中島その
カタリナ深堀なか
ジョアンバブチスタ守山甚吉
ペトロ中島駒吉
八十助
ドミニコ片岡兵助
カタリナ深堀さい
カタリナ深堀とめ
リナ深堀志も
ロレンソ平井正太郎
パウロ片岡三八
ジョアン岩永源八
カタリナ岩永すき
ドミニコ岩永又市
ジョアンバブチスタ守山国太郎
マダレナ松尾こま
サヒナ松尾さの
ドミニコ守山祐次郎
キリスナ深堀きり
ドミンコス片岡惣市
ジョアンバプチスタ深堀松五郎
カタリナ相川わゐ
カタリナ岩永もり
カタリナ松尾かめ
ペトロ新三郎
彼らは信仰を守って殉教しましたが、
拷問に負けて棄教したものは、
153名中53名いたという。
残りの者は棄教せずに生きながらえ、
明治6年に禁教の高札が撤去されると、
彼らは無事に放免されています。
一粒の麦は地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが、死ねば多くの実をつける。
ヨハネによる福音書12章24節
そうかもしれません。
きっとそうなのでしょう。
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