慶応3年。
長崎の浦上村の農民達が仏式葬儀を拒否し、
彼らが隠れキリシタンだと発覚します。
町年寄高木仙右衛門は奉行所に出頭し、
隠しもせずキリシタンであると表明。
驚いた奉行所は高木をそのまま帰しますが、
幕府は密偵を使って信徒を調査し、
浦上村の信徒が一斉に捕えられました。
俗にいう浦上四番崩れです。
後に幕府が倒れて新政府が発足しますが、
新政府に移行してもキリスト教は禁止され、
捕縛された信徒3800人が問題となり、
協議の末に信徒らの流罪が決定。
全国各地に移送されました。
移送された信徒達には棄教を求められ、
数々の拷問が行われたとされます。
萩にも約300人が移送されて、
棄教の為の拷問が行われたようで、
その末に40余名が殉教を遂げました。
「萩キリシタン殉教者記念公園」。
殉教したうちの20名がここに埋葬。
萩カトリック教会初代司祭ビリヨンは、
拷問に使用されたという庭石などを収集し、
それを基礎として記念碑を建てました。
※ビリヨン(ヴィリヨン)司祭は、
唐人墓を建立した人物(記事はこちら)。
「信仰之為生命を奉げた
カトリック教徒記念の聖地」碑。
隠れキリシタン(潜伏キリシタン)は、
正確にはカトリックではありませんが、
伝来当時がカトリックであったので、
間違いではないのでしょう。
「奉敬致死之信士於天主之尊前」碑。
信仰のために亡くなった信者は、
神の前に貴いという意味です。
碑の周りには殉教した切支丹の墓石が並ぶ。
浦上邑百姓○○墓などと刻まれていますが、
墓石も建てられていたのですね。
碑の後には明治後期や大正時代の墓石も。
解禁になってからの信者の墓でしょう。
江戸初期に殉教した熊谷元直の碑も、
ここに建てられています。
「熊谷元直(中央)」、
「萩城建築者伯多禄天野元信殉教ス(左)」、
「伯多禄巻村狩野半右衛門殉教ス(右)」。
毛利家家臣熊谷元直は益田元祥と共に、
萩城の築城総責任者でしたが、
娘婿天野元信配下の五郎太石盗難が発生。
元信は益田家家臣3人を盗人として捕らえ、
益田家の普請奉行に訴えます。
奉行は穏便に事を済ませようとしますが、
元信は前々から何度も盗まれていると、
2000荷の五郎太石の弁償を要求。
前々から盗まれた件は証拠が無いために、
普請奉行はその要求を拒否します。
そこで肝煎生駒三郎兵衛が調停しますが、
元信は以後も強硬路線を崩さず対立は激化。
この事態に藩重臣らが仲裁に乗り出し、
益田家が1700荷の弁償を提案しますが、
元信は2000荷の弁償を譲りません。
益田側は盗人の家臣3人を斬首にしますが、
それでも納得せず東門の普請が中断し、
主君毛利輝元の上洛を遅らせる事態に発展。
幕府の不興を買うことを恐れた輝元は、
熊谷元直、天野元信一族11人を捕縛し、
彼らに自害を言い渡しますが、
これを拒否した為に斬首しました。
この事件は五郎太石事件と呼ばれます。
熊谷元直、天野元信は切支丹であった事が、
粛清の理由であるとイエズス会は認定。
彼らは殉教者となりました。
確かに切支丹を排除する動きがあり、
同じく切支丹の狩野半右衛門なども、
数年後に処刑されています。
拷問として有名なのは寒ざらしのツル。
22歳の岩永ツルが冬に腰巻き1枚にされ、
石の上に正座させられたというもの。
夜になると裸のまま牢に帰され、
昼にはまた石の上に正座させられたという。
そんな拷問が18日目も続けられますが、
それでも棄教しなかったため、
役人は改宗させるのを諦めたという。
普通死ぬでしょ?というレベルの拷問で、
聖人並の生命力(神の加護)があった模様。
それでも生き残って浦上に帰り、
信仰に生涯を奉げたというから凄いですね。
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