①/②/③
津和野藩の藩主亀井家の墓所は、
城下北側の乙雄山中腹にあります。
「永太院」。
亀井家の菩提寺永明寺の末寺で、
亀井家墓所はこの永太院の奥。
境内に樹齢百年というシダレザクラがあり、
春には見事な花を咲かせるそうです。
「西家墓所」。
亀井家墓所への石段の途中にある西家墓所。
西家は代々御典医を務める家柄で、
幕末に活躍した西周はこの家の出身です。
江戸に出て洋学を学び、
後に幕命でオランダへ留学。
榎本武揚、澤太郎左衛門らと共に、
法学、哲学、経済学、国際法を学びました。
帰国後は徳川慶喜の側近として活躍。
維新後は沼津兵学校の初代校長となり、
明治3年より明治政府に出仕し、
軍政整備、軍人精神の確立に努めています。
右半身が麻痺して体が不自由となりながら、
心理学などの研究を続けたという。
西周の墓は東京の青山霊園にあり、
ここにはありません。
「亀井家墓所」。
石段を登った先にある亀井家の墓所。
歴代藩主や一族の墓石が立ち並んでいます。
東京の墓所もここに改葬されたようで、
71基もの墓石が建っていましたが、
所狭しといった感じではありません。
「中山道月大居士」。
津和野藩の藩祖亀井茲矩の墓。
自然石の小さなお墓です。
元々は毛利元就に滅ぼされた尼子家家臣で、
山中鹿介らと共に尼子勝久を擁し、
尼子再興を目指して毛利家に対抗しました。
その後織田信長が台頭すると傘下に入り、
羽柴秀吉や明智光秀の配下となりますが、
勝久や山中が討たれて尼子再興は断念され、
再興軍を吸収して秀吉の家臣となってます。
関ヶ原の戦いでは東軍として戦い、
鹿野3万8千石を与えられました。
「悟隻浄頓大居士」。
初代藩主亀井政矩の墓。
千姫事件で坂崎直盛が改易になった為、
代わって津和野藩へ加増転封され、
津和野藩の初代藩主となっています。
将軍徳川秀忠の信任が厚く、
姫路藩への加増転封の話もありましたが、
30歳の若さで急死して実現していません。
「聖諦院殿前豊州太守廓山義然大居士」。
2代藩主亀井茲政の墓。
初代政矩の次男として生まれ、
父の死去に伴い僅か3歳で家督を相続。
当時は15歳以下の家督相続は、
認められず改易となる筈でしたが、
幕府の配慮により相続が許されています。
若年であった為に藩政に関与出来ず、
藩内で重臣らの派閥争いが勃発。
※津和野騒動。
この争いに多胡真清らが勝利し、
反対派が追放されて家臣団の再編が行われ、
以後は多胡家が藩政に重きを成しました。
16年の長きに亘り藩主を務め、
64歳で死去しています。
つづく。
①/②/③
■関連記事■
・島根県鹿足郡 津和野城跡
津和野藩亀井家の居城跡。
・島根県鹿足郡 殿町通り
津和野城下町は古い町並みが残る小京都。
・島根県鹿足郡 太皷谷稲成神社
日本五大稲荷のひとつ。