和歌山県新宮市 新宮水野家墓所②

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つづき。


妙法 本徳院殿良山日種大居士」。
5代当主水野忠昭の墓。
忠昭は分家の水野重矩の三男で、
4代水野重期の養子となって家督を相続。
35年の当主在任の後に死去しました。


妙法 本立院殿義道日成大居士」。
6代当主水野忠興の墓。
忠興は5代忠昭の長男に生まれ、
寛延2年((1749)に父の死去により跡を継ぎ、
14年の当主在任の後に死去しました。


妙法 法心院殿永持日顕大居士」。
7代当主水野忠実の墓。
忠実は旗本水野守鑑の次男で、
継嗣の居ない6代忠興の養子となって、
その死去に伴い家督を相続しています。
59年間の長期に渡り当主を務めますが、
尊大な振舞いをする人物だったようで、
道を進めば供を広がらせていたとされ、
皆に嫌われていたとされています。


妙法 徳洽院殿日新至誠大居士」。
8代当主水野忠啓の墓。
忠啓は7代忠実の長男水野範明の長男で、
父が家督を相続する前に死去し、
忠実の嫡孫としてその死後に家督を相続。
13年の当主在任の後に隠居しており、
嘉永元年に死去しました。


鶴峯院殿従三位下
 前土州太守篤勤日精大居士
」。
9代当主水野忠央の墓。
忠央は8代忠啓の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
江戸家老として絶大な権力を得て、
藩政を牛耳って専制的に振舞った他、
幕府中枢大奥へも工作を行い、
将軍継嗣問題では南紀派として暗躍。
大老井伊直弼と通じて一橋派と対立し、
13代藩主徳川慶福を継嗣に推し、
慶福が徳川家茂として将軍となります。
しかし桜田門外の変で井伊が暗殺され、
南紀派の多くが失脚すると、
隠居を命じられて新宮城に謹慎。
元治元年に放免されていますが、
政治に復帰する事はありませんでした。
慶応元年、死去。


眞徳院殿忠幹日現大居士
 眞珠院殿釥子日要大姉
」。
10代当主(初代藩主)水野忠幹と、
忠幹の継々室釥子の墓。
忠幹は9代忠央の長男として生まれ、
父の強制隠居に伴い家督を相続。
父に似ず謹厳実直な性格で、
周囲からの人望も篤かったとされ、
第二次長州征伐では芸州口で戦い、
各藩が長州藩に敗れる中において、
忠幹率いる新宮勢が善戦しており、
長州勢から「鬼水野」と恐れられました。
慶応4年の鳥羽伏見の戦いの後、
旧幕府軍敗残兵を受け入れた紀州藩は、
その弁明に忠幹を派遣しています。
同年に水野家は独立大名と認められ、
新宮藩を立藩して初代藩主となり、
明治2年の版籍奉還藩知事に任命され、
明治4年の廃藩置県で免官。
その後は東京府に移住しており、
男爵に叙爵されて錦鶏間祗候となりました。
晩年は鎌倉で暮らし明治35年に死去。

廃藩までの当主は忠幹で終わりますが、
忠幹長男の水野忠宜も特筆すべきです。

陸軍歩兵中尉正五位水野忠宜墓」。
忠幹長男の水野忠宜の墓。
忠宜は陸軍士官学校を卒業し、
弘前の陸軍第8師団に配属されます。
歩兵少尉から歩兵中尉に昇進し、
明治35年に八甲田山雪中行軍に参加。
※歩兵第5連隊第2大隊第8中隊第4小隊長。
父忠幹の送ってくれた防寒着を身に纏い、
1月23日に営所を出発しますが、
天候が悪化した為に翌日に遭難します。
忠宜は現地の地理に詳しかった為、
率先して帰路を探りましたが、
駒込川の沢を脱出する際に卒倒して凍死
遺体は1月31日に発見されました。
「鬼水野」の子息として大いに期待され、
将来の陸軍で活躍する筈でしたが、
無謀な演習によって命を落としています。
父忠幹も息子の死で生きる気力を失ったか、
後を追うように同年4月に死去。
家督は八男の水野重吉が相続しました。
※重吉の墓もこの墓所にあります。

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