大得寺は玉城町田丸にある浄土宗の寺院。
元々は遠江国周智郡で創建されたお寺で、
久野家の菩提寺となっていましたが、
当主久野宗成が徳川頼宣の家老となって、
田丸城を与えられた事により、
久野家と共に田丸に移転しました。
「山門」。
門脇に舊田丸藩主菩提所の碑がありますが、
久野家は紀州藩の家老連綿である為、
幕府の直臣(藩主)ではありません。
とはいえ将軍拝謁も許され、
大名に準ずる処遇を与えられており、
伊勢神宮にも田丸藩主の記載があるという。
但し維新後は安藤家や水野家とは違い、
独立はしていません。
「本堂」。
本堂は大正5年に焼失しており、
現在の建物は大正9年に再建されたもの。
「久野家墓所」。
本堂裏にある久野家の墓所。
歴代城主の墓碑が並んでいます。
「報土院殿万譽高天禅定門 退位」。
初代当主久野宗成の墓。
宗成は徳川家家臣久野宗朝の次男でしたが、
父が三宅正次を私怨で殺害して自害した為、
久野家は改易されてしまいます。
後に祖父久野宗能が1000石で再興し、
関ヶ原の戦いの功で8500石に回復。
宗成は宗能の死去後に家督を相続しますが、
徳川家康の十男徳川頼宣の家老となり、
頼宣が紀州藩主となると、
田丸に1万石を与えられています。
「大得院殿〇譽宗安大居士(右)」、
「長照院殿月峯宗閉大居士(左)」。
初代宗成の祖父久野宗能、
2代当主久野宗晴の墓。
久野家は元々は今川家の家臣で、
桶狭間で当主久野元宗が討死した為、
弟の宗能が家督を継いでいます。
後に徳川家康に降伏しており、
武田家との戦いで活躍。
下総国佐倉に1万3000石を与えられ、
嫡嗣の宗朝に家督を譲っていますが、
宗朝が三宅正次を殺して自害した為、
千石で久野家を再興しました。
関ヶ原の戦いの後に加増され、
8500石にまで回復していますが、
慶長14年に死去しています。
2代宗晴は父の死去で家督を継ぎ、
23年の在任の後に死去しました。
「常立院殿信譽大圓大居士」。
3代当主久野宗俊の墓。
宗俊は父宗晴の死去に伴い家督を相続。
相続時は7歳であった為、
附家老家水野、安藤両家に後見され、
元服後は46年に亘り家老を務めました。
「旭峯院殿幽譽霊転覺心大居士」。
4代当主久野俊正の墓。
父宗俊の隠居に伴い家督を相続。
25年の在任後に死去しています。
「義譲院殿得譽勇山鐵心大居士」。
5代当主久野俊純の墓。
父俊正の死去に伴い家督を相続し、
46年の在任後に死去しました。
「久近院殿賢譽緑山密道大居士」。
6代当主久野輝純の墓。
父俊純の死去に伴い家督を相続。
領内に小池流水練道場を築かせ、
熊野本宮大社の造営奉行を務めており、
38年の在任の後に死去しています。
「光徳院殿仁譽奉空禮純大居士」。
7代当主久野昌純の墓。
父輝純の死去に伴い家督を相続しますが、
病弱であったようで和歌山を出る事はなく、
12年の在任後に死去しています。
「久野白水君碑」。
8代当主久野純固の墓。
父昌純の死去により家督を相続しており、
海防強化の為に領内に砲台を建築。
家臣らに西洋砲術を学ばせ、
砲術練習場も開かせており、
幕末紀州藩の執政として活躍しています。
俳句や漢詩等にも長けた文化人で、
詩集等も著していました。
明治6年、死去。
久野家は家老として和歌山に詰めており、
田丸城主とはいえ殆ど帰らなかったようで、
城代として一門の久野市兵衛家を充て、
領内の政務に当たらせたという。
後にこの役は久野兵右衛門家が受け継ぎ、
以後は明治維新まで続きました。
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