田丸城は南北朝時代に築かれた城で、
北畠親房による築城とされます。
足利尊氏に攻め落とされていますが、
室町時代に再建されており、
北畠政郷の四男顕晴が田丸姓を名乗り、
以後は田丸家の居城としていましたが、
戦国時代の城主田丸直昌が、
織田信雄に田丸城を明け渡し、
信雄の居城として近世城郭へ改修。
織田家の伊勢支配の拠点となっています。
江戸時代初期には稲葉道通が田丸藩を立藩。
稲葉家が転封すると田丸藩は廃藩し、
津藩領を経て紀州藩領となりました。
田丸領は家老の久野宗成に与えられ、
以後は久野家が城主となって、
明治維新まで続いています。
「大手門橋」。
田丸城跡は建物は残っていないものの、
外堀や石垣が状態良く残っており、
それ程大きな城ではありませんが、
見応えのある城跡となっています。
「外堀」。
大手口のある東側の外堀は、
その幅は50m程もある大きいもの。
殆ど当時のままの状態のようで、
その割に西側の堀の幅は狭く、
水路程度だったようです。
茶色い建物は玉城町役場で、
当時は同心長屋や役屋敷のあった場所。
「村山龍平記念館」。
大手門を入って北側にある村山龍平記念館。
村山龍平は久野家家臣だった旧士族で、
明治維新後は一家で大阪に移住し、
西洋雑貨商を営みながら財を蓄え、
朝日新聞の創刊に参加した後、
その所有権を獲得しました。
帝室林野局より田丸城跡を買い取り、
これを城山公園として田丸町に寄付。
その保存に尽力しています。
「三の丸奥書院」。
記念館の裏手に復元された三の丸奥書院。
払い下げられて農家に移築されたもので、
110余年住居として使用されており、
改築に際して町に譲られて移築したもの。
貴重な田丸城の遺構です。
「内堀」。
内堀には大賀ハスが咲き誇っていました。
外堀に比べて内堀は小さなもので、
一部分にだけしかなかったようです。
「三の丸虎口」。
山麓部から山間部への登城口。
御殿のあった三の丸への正門でした。
「玉城町立玉城中学校(三の丸跡)」。
虎口を登ると中学校の裏門が現れます。
この玉城中学校の敷地が三の丸跡で、
三の丸御殿が建てられていた場所。
中学校敷地に沿って北側へ。
途中には蓮池が当時のまま残っています。
「富士見門」。
蓮池近くに移築された富士見門。
廃城後の建物は払い下げられており、
明治元年に宮古の乙部邸に移築され、
後の昭和59年に玉城町が譲り受け、
ここに再移築しました。
この門は三の丸から二の丸へ続く門。
「本丸虎口」。
三の丸から山頂部への入口。
見事な石垣が連なっています。
山頂部の中央に本丸があり、
南に二の丸、北に北の丸が配置され、
東からの攻撃に特化していた模様。
「本丸跡」。
田丸城は三の丸に御殿が建てられており、
山頂部は後詰の曲輪だったようで、
火薬庫が置かれていた程度でした。
「天守台」。
意外に大きな天守台。
三重の天守が建っていましたが、
2代城主久野宗晴の代に大雨で倒壊。
以後は再建される事はありませんでした。
田丸城の城主である久野家は、
家老として和歌山城下に詰めており、
田丸城に戻る事は少なかったという。
この為に一門の久野市兵衛家を城代とし、
領内の政務に当たらせたという。
後にこの役は久野兵右衛門家が受け継ぎ、
明治維新まで勤めています。
「赤門久野屋敷跡」。
城下にある久野兵右衛門家屋敷跡。
赤塗の門を構えていたようで、
城主家と区別する為に、
赤門久野と呼ばれていたとのこと。
■関連記事■
・三重県度会郡 大得寺/久野家墓所
田丸城主久野家の歴代墓所。
・三重県度会郡 田丸宿跡
城下にあった伊勢本参道の宿場。
・和歌山県和歌山市 和歌山城(再訪)
紀州徳川家の居城跡。