妙源寺は真宗高田派の寺院で、
松平家に尊敬されていたらしく、
三河一向一揆で松平(徳川)家康が逃げ込み、
難を逃れたとされます。
「山門」。
薬医門形式の山門。
倒壊防止の支えが付けられていますが、
見た限り丈夫そうですね。
「柳堂」。
鎌倉時代末期建立の檜皮葺寄棟造で、
正式名称は太子堂で聖徳太子を祀ります。
国指定重要文化財。
「楼門」。
こちらも倒壊防止が付けられていますが、
三河の寺院では珍しくはないらしい。
一階部分に壁が無く脚柱だけなので、
こちらは何となく頼りなく見えますね。
「本堂」。
妙源寺は元々は[明眼寺]であったようで、
元々の本尊の如来像は源義経の持仏。
これを家康が所望して守り本尊としており、
この縁から家康は[源]の一字を与えて、
以降は妙源寺に改称されました。
その守り本尊は家康の死後、
増上寺に奉納されて現存しています。
墓地には安藤家、本多家、高木家など、
徳川譜代家臣の墓が並びます。
特に紀州藩附家老安藤家は江戸時代を通じ、
妙源寺を歴代当主の墓所としました。
「安藤家墓所①」。
左から初代安藤直次、6代安藤陳武、
4代安藤直清、10代安藤寛長の五輪塔。
安藤家墓所は2ヶ所に分かれており、
本堂側に初代直次の五輪塔があります。
初代直次は幼い頃より家康に仕え、
姉川や長篠、小牧長久手などの戦いに参戦。
徳川幕府が開かれると老中を務め、
家康十男徳川頼宣の附家老を務めながら、
そのまま家康の側近も務めました。
頼宣が紀州藩主となると田辺城を与えられ、
紀州藩附家老として藩政の基礎を築きます。
以後の安藤家は代々附家老と務め、
維新後に紀伊田辺藩を立藩しました。
「安藤家墓所②」。
墓地の南側にあります。
残念ながら個人の特定は出来ませんが、
だぶん江戸期の当主は揃っている筈です。
「本多助左衛門忠豊公墓(右)」、
「本多平八郎忠髙公墓(左)」。
徳川四天王本多忠勝の祖父と父の墓。
祖父本多助左衛門忠豊は、
織田信秀に敗れた松平弘忠を逃がす為、
殿軍で戦って討死しています。
次代の父本多平八郎忠髙は、
安祥城を守る織田信広を攻めましたが、
運悪く流矢が眉間を直撃して討死しました。
「平岩主計頭親吉公墓」。
徳川十六神将のひとり平岩親吉の墓。
家康の信任厚く尾張藩附家老となりますが、
平岩家は継嗣無く断絶しました。
遺骸は名古屋の平田院に埋葬されており、
墓碑は平和公園に移されています。
ここに墓は建てられている所以は不明。
「緑徹牲順禪定門 霊位」。
徳川十六神将のひとり高木清秀の墓。
家康家臣となったのは老年期だったようで、
水野信元に仕えた後に織田信長に仕え、
多くの戦いを経験した歴戦の強者でした。
「法名釈氏淨照居士 前髙木主水正(左)」、
「法名釈氏道向居士 俗名髙木主水正(右)」。
丹南藩初代高木正次と2代髙木正成の墓。
初代正次は髙木清秀の三男として生まれ、
父と共に家康に仕えた後は、
小牧長久手の戦いや小田原征伐に参加し、
徳川秀忠に従い第二次上田合戦にも参戦。
大坂定番となった際に1万石の大名となり、
丹南藩を立藩しました。
2代正成は初代正次の長男として生まれ、
父と共に諸戦で戦功を挙げ、
父の死去に伴い家督を相続。
幕政への参加で3000石を加増されています。
徳川十六神将が2人、本多忠勝の祖父と父、
安藤家の歴代当主、丹南藩初代、2代と、
なかなかのボリュームの墓地参りでした。
■関連記事■
・三重県桑名市 浄土寺/本多忠勝本廟
東国無双本多忠勝の墓所。
・大阪府松原市 来迎寺/ 丹南藩高木家墓所
こちらにも高木正次の墓があります。