薩摩街道の宿場八代宿は八代城下にあり、
古来より九州の対外貿易港として栄え、
みかんが大陸より伝来した地とされます。
建武の新政の功臣名和長年の子名和義高は、
八代荘の地頭に任命されて古麓城を築城。
その城下町としても発展しました。
後に麦島城、松江城と変わりますが、
築城地は近場の移動であった為、
八代はそのまま城下町となっています。
八代市街周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが八代宿跡。
南側から散策。
「河童渡来の碑」。
徳渕の津のあった場所で、
船着場、渡し場、番所がありました。
仁徳天皇の時代に河童がやって来て、
球磨川流域に住み着いていたとされ、
やがて一族郎党は9000匹に及んだという。
その頭領の河童は九千坊と呼ばれ、
いたずらが激しく人々が困っていたところ、
加藤清正がこれを聞いて激怒し、
九州全土の猿に命じて河童を攻撃。
これには河童の頭領九千坊も降参し、
球磨川から離れて筑後川にやって来て、
久留米藩の許しを得て移り住み、
水天宮の使いをするようになったとのこと。
右から、
[札の辻元標之地]碑、[大河童像]、
[八代札の辻 十一里木跡]標柱。
前川の堤をおりてすぐの場所に、
大盃を持つ大河童の像が見えます。
ここには高札場が設置されており、
十一里木が植えられていました。
この木は熊本新町から一里ごとに植えられ、
11里目にあたるということで、
一里塚と同様の役割を果たしていました。
札の辻から北への道が街道筋。
意外にも町屋が残っています。
そのまま進むと八代城に至りますが、
街道は途中で右に曲りアーケード商店街へ。
「御客屋跡」。
本陣の役を担った藩営の御客屋(御茶屋)で、
篤姫も輿入れの際に宿泊したとのこと。
現在はリハビリ病院となっています。
街道はアーケードを抜けて左折。
歓楽街になっているようで、
多くの飲み屋の看板がありました。
真っすぐ北へ進み八戸港大手町線を右折。
出町交差点まで進んで光徳寺へ。
この辺りが城下の東入口にあたります。
「光徳寺」。
浄土真宗大谷派の寺院。
西南戦争では西郷軍の背後を突くため、
衝背軍が編成されていますが、
これらが八代に上陸して本陣としています。
黒田清隆、山縣有朋両参軍と、
別動第五旅団長の大山巌も滞在しました。
「彦一塚」。
とんち話の彦一さんは出町の長屋に住み、
かつて彦一の墓とされる石もあったという。
実在の人物かどうかは不明ですが、
過去帳には母と娘が記載されており、
実在を匂わせてはいますが、
本人とその妻のものはありません。
街道は光徳寺前を通って北東に進み、
小川宿へと向かいます。
■薩摩街道の宿場町
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松井家が城主を務めた熊本藩の支城跡。