手向山は小倉藩家老宮本伊織貞次が拝領し、
山頂に養父宮本武蔵を偲んだ碑を建て、
代々の墓所とした場所でした。
※当時は田向山と呼ばれていたという。
山は後の明治20年に陸軍に接収。
下関要塞の砲台構築の為に、
山麓に墓地を移転しています。
「手向山山頂(手向山公園)」。
巌流島も望める手向山山頂。
宮本家の墓所があった場所という。
手向山は公園化されており、
桜が植えられて名所となっており、
要塞時代の砲台跡や防空壕等、
戦争遺跡も保存されています。
「天仰実相円満兵法逝去不絶」。
養父武蔵の死後の承応3年(1654)に、
宮本伊織が建立した顕彰碑。
碑文には武蔵の剣歴が記述され、
二刀流誕生や吉岡一門との死闘、
巌流島の決闘等の様子が刻まれています。
陸軍は宮本家の墓所を移動させていますが、
この碑だけは残していた模様。
武人の魂を守り神としたのでしょうか?
碑文は熊本泰山寺の春山和尚のもので、
武蔵研究の基本的史料となっており、
一般には小倉碑文と呼ばれています。
「佐々木小次郎の碑」。
昭和26年に作家の村上元三が、
新聞小説佐々木小次郎の完成を記念し、
旧小倉市に寄贈した自身の句碑。
小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ
武蔵最後の対戦相手佐々木小次郎は、
謎の多い人物とされており、
岩流(巌流)という事しか判らず、
佐々木も小次郎も定かではありません。
年齢さえわかっていないようですが、
洗練された美少年のイメージが一般的。
最後の敵はそうであって欲しいですね。
「宮本家墓所」。
手向山南麗に移転された宮本家墓所。
上下2段となっており、
上段に歴代当主の墓があるようです。
「宮本家代々の墓所」説明板。
宮本家と墓所の説明がされていますが、
最後の文章が気になります。
尚、此の墓地は当家所有地でありますの
で史蹟の研究関係者以外の方は入所ご遠
慮願います。 宮本家
う~ん。一応史跡を研究してますし、
関係者という事でお許し頂きましょう。
「忠巌結徳居士」。
初代当主宮本伊織貞次の墓。
伊織貞次は武蔵の実兄田原久光の次男で、
寛永3年(1626)に小笠原忠真に仕え、
20歳で執政職(家老)となっています。
島原の乱には侍大将と惣軍奉行を兼務し、
大功を挙げて筆頭家老となったとされ、
以後も小倉藩小笠原家を支えました。
小倉宮本家に関する資料は少なく、
巷に殆ど出回っていません。
小倉宮本家系図はあるようですが、
現時点で確認は出来ておらず、
宮本家当主の歴代の治績はおろか、
何代が誰なのかも定かではありません。
「長江院殿松峯宗設居士」。
寛文11年(1671)の没年から、
伊織貞次の実子2代宮本貞信の墓か?
「謙光院仁室宗恕虚子之墖」。
3代当主宮本実貞の墓と思われます。
享保2年(1717)の没年から判断。
「〇睦宮本君墓碑」。
4代当主宮本主馬實弼の墓。
碑文に微かに實弼の文字が読み取れました。
實弼は武蔵の兄の家系大山家からの養子。
「佚老軒無参木雞居士」。
5代当主宮本主馬貞陳の墓。
こちらは碑銘に貞陳と刻まれています。
貞陳は4代実弼の嫡男。
宮本家の知行は数度の加減があって、
貞陳の代で知行2100石となり、
以後は幕末まで変化はありません。
6代当主は小笠原貞顕の末子宮本貞則。
※貞顕は小倉新田藩3代藩主。
墓の特定は出来ませんでした。
7代当主もわかりません。
「岱栝軒静山不動居士(中央)」。
※岱としていますが碑銘は米に山。
8代当主宮本伊織貞章の墓。
弘化3年(1846)に小倉宮本家系図を編纂。
安政2年に死去しています。
藩政時代最後の当主は宮本左織貞介。
この貞介が9代なのか10代なのか不明。
上記に紹介したものも確実か不安です。
■関連記事■
・宮本伊織の系譜
小倉藩家老宮本家について。
・福岡県北九州市 福聚寺/小倉小笠原家墓所
小倉藩小笠原家の歴代墓所。
・福岡県北九州市 小倉城
小倉藩小笠原家の居城跡。