福岡県北九州市 福聚寺/小倉藩小笠原家墓所

福聚寺小倉藩初代小笠原忠真が創建し、
菩提寺として藩の保護を受けました。


第一関門」。
福聚寺の総門にあたる第一関門
本来の正規の入口なのですが、
門前は民家が立ち並んで結構狭い。
駐車場も裏門にありますので、
参拝は裏門からが多いようです。


仏殿(本堂)」。
小倉戦争の戦火で建物の多くを失いますが、
この仏殿は江戸時代中期再建のもの。

仏殿北側の墓地へ。

小倉藩島村志津摩之墓」。
島村志津摩は小倉戦争時の一番手備士大将
殖産興業振興等の財政改革を行っており、
小倉戦争で最高責任者となっています。
小倉城自焼後にはゲリラ戦を展開し、
長州藩を散々に悩ませました。
戦後も執政として藩の再建に取り組み、
炭鉱の開発等で産業を振興させており、
香春から豊津への藩庁移行を推進して、
明治2年に隠居して二崎に隠棲しています。
死去後は屋敷の裏手に葬られていましたが、
後年になってここに改葬されました。


慶応之役小倉藩戦死者墓」。
小倉戦争での小倉藩戦死者の墓碑。
小笠原宗家12代小笠原長幹や、
元帥奥保鞏らが義援金を拠出しています。
ちなみに小倉戦争が奥の初陣とされ、
維新後に陸軍に入って佐賀の乱台湾出兵
神風連の乱西南戦争等の鎮圧に従軍。
日清戦争には師団長として出征し、
日露戦争では第2軍司令官となり、
児玉源太郎の後任参謀総長に就任しました。
薩長皇族以外のはじめて元帥でしたが、
異論を唱えるものはいなかったという。
この碑は維新50年に建てられたもの。

さて藩主達の墓所は境内を出て、
市立足立青少年の家キャンプ場の手前。

小笠原忠真廟所」。
初代藩主小笠原忠真の墓所は非公開。
忠真は小笠原秀政の次男に生まれますが、
大坂夏の陣で父と長兄が戦死した為、
家督を継いで松本藩8万石の藩主となり、
後に明石藩を経て小倉藩15万石に加増。
黄檗宗開祖隠元隆琦の高弟即非如一を招き、
福聚寺を建立して菩提寺としました。


塀越しに墓石が見えます。
これは忠真の側室永貞院の墓のようです。
側室ながらこれだけ立派な墓石なのは、
2代藩主小笠原忠雄の生母だからでしょう。

2代忠雄、8代小笠原忠嘉
9代小笠原忠幹の墓所は、
キャンプ場の方から普通に入れます。

静照院殿従四位下侍従
 暁山紹栄大居士之墖」。
2代藩主小笠原忠雄の墓。
譜代大名の鏡と賞賛されていた様ですが、
どういう理由かよくわかりません。
彼の治世に小倉新田藩が立藩されています。


義峯院殿高鑑道隆公大居士之墖」。
8代藩主小笠原忠嘉の墓。
小倉新田藩(後の千束藩)7代藩主でしたが、
小倉藩7代藩主小笠原忠徴の養子となり、
忠徴の死後に8代小倉藩主となりました。
しかし22歳の若さで病死してしまい、
安志藩藩主小笠原貞幹が跡を継ぎます。


忠幹寺殿従四位下侍従
 泰巖義秀公大居士之墖」。
9代藩主小笠原忠幹の墓。
小笠原貞幹は安志藩の6代藩主でしたが、
小倉藩8代藩主忠嘉が若くして病死した為、
宗家の末期養子として家督を相続し、
9代藩主となって忠幹と名を改めています。
しかし小倉戦争直前で病死してしまい、
その死は秘匿されて小倉城内に埋葬され、
後に小倉城は自焼することとなりますが、
庄屋中村平次郎と大工の吉右衛門ら4人が、
城に忍び込んで忠幹の遺体を掘り起こし、
田川郡金田村の碧厳寺まで運んで埋蔵。
※記事はこちら
明治18年に改葬されたということです。

3~7代の藩主は江戸で死去した為、
江戸菩提寺であった海善寺に葬られており、
立派な広い墓地もあったようですが、
昭和初期に多磨霊園の合葬されたとのこと。
※この多磨霊園の墓も撤去されています。
 どこに行ったのか不明。


※2020/11/30 写真差し替え及び記事変更。

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