如来寺は木食但唱らが造った五智如来像を、
芝高輪に安置して開かれた寺院で、
一丈(約3.3m)の如来像が五躯並ぶ姿は、
江戸の人々から芝大仏と親しまれました。
二度の火災で五智如来像は焼失しますが、
その都度再建されたようで、
江戸の名所として賑わっていたという。
後の明治41年に西大井に移転し、
大正15年に養玉院と合併しています。
「養玉院如来寺」。
元々は別の地域にあった2つの寺院で、
如来寺本堂は如来堂として移築され、
養玉院本堂がそのまま本堂として移築。
養玉院の寺歴は次回記載致します。
高輪如来寺には高取藩植村家の墓所があり、
移転の際にその墓所も改葬されています。
「植村家墓所」。
如来堂の裏手にある高取藩植村家の墓所。
合葬されなかったのは素晴らしいです。
「先考本眞院殿前羽州太守
了覺日栄大居士」。
初代藩主植村家政の墓。
徳川家家臣植村家次の長男として生まれ、
家督を継いで500石の旗本となり、
徳川秀忠の小姓を務めました。
大坂の陣の功で1000石を加増され、
以後も幕府の要職を務めて加増を重ね、
徳川家光の代に2万5000石となって、
高取藩を立藩させました。
藩主として10年間藩を治め、
慶安3年(1650)に死去しています。
「泰祥院従五位下一峯空顕大居士」。
2代藩主植村家貞の墓。
初代家政の三男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
37年の治世の後に隠居しています。
「高性院従五位下前羽州太守
幽山素玄大居士」。
3代藩主植村家言の墓。
2代家貞の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しましたが、
9年の治世の後に死去しました。
4~7代の墓はここにはなく、
高取の宗泉寺にあります。
「到岸院殿従五位下観山道勇大居士」。
8代藩主植村家利の墓。
6代植村家道の四男として生まれ、
兄の7代植村家久が死去した為に、
家督を継いでいます。
その6年後に死去していますが、
死因は遊女との心中であったとされ、
これを隠して病死としたようです。
「淨徳院殿従四位下侍従
顕誠有隣大居士」。
9代藩主植村家長の墓。
6代家道の次男として生まれましたが、
7代8代と兄弟が継いでおり、
彼らの死去によって家督を相続しました。
幕政で若年寄や老中を務めており、
その在職中に死去しています。
「巌光院殿従四位下智達映雲大居士」。
10代藩主植村家教の墓。
9代家長の三男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
20年の治世の後に隠居しました。
11代植村家貴の墓も高取の宗泉寺。
「映顕院殿彰感圓通大居士」。
12代藩主植村家興の墓。
大村藩10代大村純昌の十一男に生まれ、
11代家貴の養嫡子となり、
養父の死去に伴い家督を相続しますが、
同年病死してしまっています。
13代植村家保、14代植村家壷の墓も、
高取の宗泉寺にあります。
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