高取城は国内最大級の山城で、
日本三大山城の一つとされていますが、
※他の2つは備中松山城と岩村城。
城郭全域の総面積約6万㎡という規模は、
他を上回る巨大なものでした。
登城はほぼ登山といった感じ。
崩れた石垣と雨による浸食で、
登城口はけものみちと変わりない。
家臣団の屋敷跡のような感じの場所もあり、
往時は坂の両側に建物があったのでしょう。
数ヶ所の城門が行く手を遮り、
攻め手を苦しめます。
石垣は登るにつれ状態が良くなりますが、
ただ登るだけでもしんどい。
「大手門跡」。
御城門とも呼ばれた城の玄関口跡。
ここまでたどり着くだけで、
へとへとになりましたが、
意外と沢山の人とすれ違います。
登山客(登城客?)でしょう。
「二ノ丸跡」。
二ノ丸御殿が建てられていた二ノ丸跡。
藩主の正式な居館だったようですが、
登城が不便であった為に、
藩主は下屋敷に居住していました。
それでも維持はされていたようで、
御殿玄関が高取国民学校に移築され、
学校の玄関となっていましたが、
残念ながら昭和19年に焼失しています。
「新櫓跡」。
二ノ丸のさらに奥には新櫓の石垣が。
二ノ丸を攻略してもまだ先があるわけです。
「本丸石垣」と「天守大杉芙容姫」。
新櫓を越えると本丸石垣が現れます。
手前の大杉は樹齢700年とされており、
南北朝時代に最初の城が築かれたころから、
根を張っていたと考えられています。
芙容姫の名は高取町の命名。
「高取城址」碑。
大杉の裏手に跡碑がありました。
「本丸御門跡」。
いよいよ本丸跡へ。
ここまで来るまでに何度死んだ事だろうと、
一人で考えながら本丸跡へ入ります。
「本丸跡」。
思っていたより広い本丸跡。
ここには本丸御殿があったようですが、
江戸期に存在したかは不明。
「天守台」。
3重3階の大天守、同規模の小天守、
3基の二重櫓、これらを多聞櫓が繋ぐ、
連立式天守であったという。
江戸時代を通じて残されていましたが、
廃城後は維持管理がなされずに、
自然崩壊してしまったという。
高取城を降りて城下へ。
「植村家長屋門」。
城代家老の役宅の屋敷門だったもので、
現在は旧藩主の植村家の門となっています。
高取城は上記の様に非常に険しい山城で、
藩庁としては不便であった為に、
下屋敷を建設して藩主の居館としました。
はじめ下屋敷は城と城下の中間に建てられ、
その後に城下に移転したようです。
この長屋門の南側が下屋敷跡のようですが、
現在は住宅地となっています。
高取藩植村家が統治した約200年間、
高取城は大きな焼失や災害に遭うことなく、
旧状が保たれていたという。
当時は石垣の組み直すにしても、
幕府の許可が必要でしたが、
高取城は3代将軍徳川家光より、
「一々言上に及ばず」と許しを得ており、
容易に改修ができたとされています。
それゆえに自然崩壊させたのは残念ですね。
五條代官所を襲撃した天誅組は、
近隣諸藩に使者を派遣して恭順を迫り、
高取藩は使者の那須信吾に恭順を約束し、
兵糧を提供することになります。
しかし八月十八日の政変が発生し、
大和行幸が延期された為に状況が変わり、
天誅組に追討令が出された為に、
高取藩は態度を変えて兵糧の提供を拒否し、
これに怒った天誅組は高取藩へ攻撃を開始。
高取藩は伏兵を配してこれを奇襲し、
烏合の衆の天誅組は大混乱に陥り潰走し、
五條まで退却しました。
別働隊の吉村虎太郎はこの結果に憤慨し、
決死隊を編成して夜襲を試みますが、
高取藩の斥候に発見されて交戦して撤退。
吉村はこの戦いで重傷を負い、
歩行が困難となっています。
仮に高取城を天誅組が奪ったとしたら?
ありえないとは思いますが、
高取藩が天誅組に負けて城下を追われ、
天誅組が空となった山城に籠ったら?
一体どうなっていたのでしょうね。
【高取藩】
藩庁:高取城
藩主家:植村家
分類:2万5000石、譜代大名
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高取藩植村家の歴代墓所。
・東京都品川区 養玉院如来寺/植村家墓所
高取藩植村家の江戸墓所。
・奈良県五條市 五條代官所跡
天誅組が襲った幕府代官所。