旗本であった高取藩初代藩主植村家政は、
3代将軍徳川家光の許で出世し、
大名となって高取城を与えられ、
2万5000石で高取藩を立藩しています。
山城の高取城は不便であった為、
家政は北側の城下に近い場所に居館を構え、
これを下屋敷としました。
後に4代藩主植村家敬がさらに城下に移し、
跡地には菩提寺として宗泉寺が創建。
歴代藩主の墓所となりました。
「本堂」。
宗泉寺は明治維新後に衰退し、
先の大戦後に中興されており、
本堂等の建物はその際に再建されたもの。
「植村家墓所」。
本堂裏手の墓地にある植村家の墓所。
「本真院殿了覚日栄大居士
泰祥院殿一峰空顕大居士
高性院殿幽山素玄大居士
列岸院殿観山道〇大居士
浮徳院殿〇〇〇〇大居士」。
初代藩主植村家政、2代藩主植村家貞、
3代藩主植村家言、及び他2人の合葬墓。
戒名は右から。左2人はよくわかりません。
初代家政は父から家督を継いだ際、
僅か500石であったようですが、
2代将軍徳川秀忠付の小姓となり、
大坂の陣で斥候を務めて1000石を加増。
その後の3代家光の代に大番頭に任じられ、
さらに加増を重ねて大名となりました。
次代の家貞は37年の治世の後に隠居。
3代家言は9年の治世後に死去しています。
「正善院殿従五位下前羽州太守
仁岳道義大居士 神儀」。
4代藩主植村家敬の墓。
2代家貞の長男植村政成の長男でしたが、
政成は病弱だった為に3代は家言が相続。
しかし家言の嫡男亀松が早逝し、
続いて家言も死去した為に跡を継ぎます。
上記したように下屋敷を城下に移転。
支配体制を強化しました。
「随縁院殿従五位下前羽州太守
實應性遍大居士 神儀」。
5代藩主植村家包の墓。
4代家敬の嫡男植村高堅は早逝し、
養子として迎えた植村稲之助も早世した為、
旗本植村家より家包が迎えられました。
7年の治世の後に死去。
「等覺院殿従五位下前羽州太守
觀道性應大居士 神儀」。
6代藩主植村家道の墓。
4代家敬の嫡男、養嫡子が相次いで死去し、
次男として生まれた家道は幼少だった為、
5代は家包が継いでいましたが、
その家包が死去した為に家督を相続します。
家道は幕府領の預かりを命じられており、
代を重ねるごとに預かり地は増加しました。
「諦觀院殿従五位下前羽州太守
頓悟宗圓大居士 神儀」。
7代藩主植村家久の墓。
6代家道の長男として生まれ、
父の死去により家督を相続。
財政難に対して家中の引き締めを行い、
八十九ヶ条の定書を制定しました。
8~10代藩主の墓はここにはありません。
8代植村家利は遊女と入水自殺したとされ、
露見すれば改易の危機を病死として処理。
代わって9代植村家長は老中格に出世し、
4500石の加増と預かり地の増加で、
所領と預地で10万石を持つに至ります。
10代植村家教は儒学者谷三山を招聘。
谷は藩内で尊皇攘夷を説き、
高取藩士に尊攘派を増やしました。
彼らは江戸で死去してますので、
港区の如来寺に葬られています。
「徳現院殿従五位下前羽州太守
淨雲普光大居士 神儀」。
11代藩主植村家貴の墓。
9代家長の四男として生まれ、
兄の10代家教の隠居により家督を相続。
5年の治世の後に死去しました。
12代植村家興は僅か5ヶ月で病死。
墓もここにはありません。
「憲護院殿正四位恵厚稟聖大居士 神儀」。
13代藩主植村家保の墓。
膳所藩12代本多康禎の七男として生まれ、
家興が急死した為に家督を相続。
天誅組の変で高取城を攻められますが、
戦死者を出さずにこれを退けています。
王政復古後に新政府に恭順し、
御所警備に藩兵を派遣。
幕領を預かっていた経緯から、
大和国の旧幕領の取締りを行なっており、
慶応4年閏4月に隠居して家督を譲り、
明治29年に死去しました。
「聖壽院殿従二位瑞光慈照大居士 尊儀」。
14代藩主植村家壷の墓。
山崎藩8代本多忠鄰の六男として生まれ、
13代家保の養嫡子となり、
養父の隠居により家督を相続。
版籍奉還により藩知事となり、
廃藩置県によって免官されて東京に移住し、
華族令により子爵になっています。
晩年は高取で余生を過ごし、
大正9年に死去しました。
現在も旧藩主の植村家は高取に住んでおり、
以降の当主の墓所もここにあります。
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