栃木県大田原市 大雄寺/大関家墓所①

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大雄寺は大田原市黒羽田町の曹洞宗寺院。
応永11年(1404)に白旗城内に創建され、
大関家の居城が黒羽城に移ると、
城の南側の現在地に移転しました。
15代当主大関高増の兄大関増次を開基、
在室玄隣大和尚を中興開山とし、
大関家累代の菩提寺となっています。


参道と山門」。
古刹の雰囲気漂う杉木立の参道山門
季節には著莪の白い花が一面に咲くという。

山門先の伽羅群は文安5年(1448)の建築。

総門」。
本堂正面に建つ廻廊付きの茅葺き総門
左右続く廻廊と共に国指定重要文化財


本堂」。
廻廊に囲まれた茅葺き屋根の本堂には、
本尊の釈迦如来像が安置されています。
この他にも禅堂鐘楼堂経蔵等は、
全て茅葺き屋根で国指定重要文化財。

南側の墓地にある大関家の墓所へ。

大関家墓所」。
歴代藩主の巨大な墓石が並ぶ墓所。
大大名の墓所に匹敵する規模で、
2万石足らずの小大名とは思えません。
前期の藩主は五輪塔となっており、
後期の藩主は位牌型となっています。


大関家先祖代々精霊位」。
初代藩主(17代当主)大関資増及び、
2代藩主(18代当主)大関政増の墓は、
墓所内を探しても見当たらず。
たぶんこの先祖代々の墓のどれかでしょう。
初代資増は16代当主の兄大関晴増が、
病気を得て隠居する際、
嫡男政増が幼少である為に、
17代当主となって家督を相続しました。
関ヶ原の功で2万石に加増されますが、
病の為に32歳で早逝しています。
叔父資増の跡を継いで2代となった政増は、
関ヶ原では人質として江戸に送られており、
病気の資増から家督を譲られました。
大坂の陣では冬夏共に出陣しますが、
その翌年に26歳で病死しています。


第十九代大関高増公(墓碑銘読めず)」。
3代藩主(19代当主)大関高増の墓。
2代政増の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
大坂加番駿府加番を努めますが、
36歳の若さで死去しています。
ちなみに15代当主の名も高増で、
那須家から独立した当主である為、
そちらの方か有名で間違えられがち。


伝心宗単大居士」。
4代藩主(20代当主)大関増親の墓。
3代高増の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
相続の際に2人の弟に千石ずつ分与した為、
黒羽藩は1万8千石となり、
以後は廃藩まで黒羽藩はこの表高。
増親も28歳で死去してしまい、
ここまで早逝が続いています。


本源院殿心印元證大居士」。
5代藩主(21代当主)大関増栄の墓。
3代高増の次男として生まれ、
千石を分与されて交代寄合となりますが、
後に兄の養子となって家督を相続。
26年の治世の後に50歳で死去しました。


慧日院殿義天得翁大居士」。
6代藩主(22代当主)大関増恒の墓。
7代増栄の嫡男大関増茂の子で、
祖父と父が同時期に死去した為、
僅か4歳で家督を継いでいます。
49年間藩主として過ごした後に隠居。
その後は21年も江戸藩邸で暮らし、
74歳で死去しました。


護国院殿義賢一貞大居士」。
7代藩主(23代当主)大関増興の墓。
6代増恒の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
大阪加番等を務めた後に隠居し、
江戸藩邸で62歳で死去しています。

つづく。
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