①/②
つづき。
「玄梁院殿活眼道印大居士」。
8代藩主(24代当主)大関増備の墓。
7代大関増興の嫡男として生まれ、
父の隠居により家督を相続しましたが、
翌年に死去してしまいました。
「本覺院殿無量義印大居士」。
9代藩主(25代当主)大関増輔の墓。
8代増備の長男として生まれ、
父の急死に伴い幼少ながら家督を相続。
元服後は駿府加番や大坂加番を努め、
38年の藩主在任の後に隠居しました。
以降の墓石は五輪塔から位牌型へ。
「五品作州刺史丹治 公墓」。
10代藩主(26代当主)大関増陽の墓。
9代増輔の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
鍛冶橋門番や大阪加番を努めています。
治世では藩財政が逼迫しており、
財政改革を行うも上手くいかず、
養子を迎えて持参金に頼るより他になく、
僅か9年で隠居しました。
墓碑名が削られているのが気になりますが、
その理由はわかりません。
「従五位下行土佐守丹治眞人増業墓」。
11代藩主(27代当主)大関増業の墓。
大洲藩6代加藤泰衑の八男として生まれ、
大関家に養子に入って家督を相続。
養父より年上であったようです。
藩主となると藩の財政改革に着手し、
杜撰な藩経営を正して倹約に努め、
特産品栽培の推奨、治水工事を行い、
一定の成果はあったものの、
守旧派の重臣らから隠居を迫られ同意。
余生は主に学問に勤しみ、
江戸後期の名君と呼ばれる人物らと交友し、
多くの著作を残しています。
「従五位下行伊豫守丹治真人増儀公墓」。
12代藩主(28代当主)大関増儀の墓。
10代増陽の次男として生まれ、
11代増業の養子となっています。
養父増業が重臣らに隠居させられた為、
その家督を相続していますが、
実権は保守派の家臣よって握られました。
24年の藩主在任後に隠居。
「従五位下行信濃守丹治真人増昭公墓」。
13代藩主(29代当主)大関増昭の墓。
12代増儀の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しましたが、
僅か8年で23歳の若さで死去しています。
「従三位大関増式之墓」。
14代藩主(30代当主)大関増徳の墓。
篠山藩5代青山忠良の五男に生まれ、
13代増昭の末期養子として家督を相続。
12代増儀の娘鉱姫を正室としますが、
後に離縁して家臣らに避難されます。
文久元年に家老益子右近らに監禁され、
隠居届が幕府に提出されました。
増式は廃藩まで軟禁されていたという。
慶応3年に増式と改名しています。
「従五位下行肥後守丹治眞人増裕公墓」。
15代藩主(31代当主)大関増裕の墓。
横須賀藩西尾家からの養子で、
14代増徳の養子となり家督を相続。
陸軍奉行や海軍奉行を努め、
藩政では藩校作新館を創設した他、
藩軍制の西洋化改革を進めました。
慶応3年の猟銃暴発事故で死亡。
暗殺説や自殺説もあるようです。
「正三位勲三等子爵大関増勤
夫人生駒氏年子 墓」。
16代藩主(32代当主)大関増勤と、
生駒親敬長女で継室の年子の墓。
山家藩13代谷衛滋の子とされ、
15代増裕の事故死により、
末期養子として家督を継ぎました。
新政府が樹立するとこれに恭順し、
戊辰戦争に藩兵を派遣。
廃藩後は米国に留学しており、
帰国後に明治政府に出仕しています。
明治38年、死去。
「大関増輝之墓」。
33代当主大関増輝の墓。
16代藩主増謹の長男として生まれ、
家督を継いで黒羽の発展に尽力したとか。
あまり詳しく調べていません。
黒羽藩は家臣達の力が強かったのか、
隠居を迫ったり監禁したりと、
普通の藩では余り考えられません。
これについては色々あるでしょうし、
正義がどこにあるのかわかりませんので、
どっちが悪いとは言えませんが・・。
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・栃木県大田原市 黒羽城跡
黒羽藩大関家の居城跡。