崇福寺墓地の玄洋社墓所に行ってみます。
「玄洋社墓所」。
玄洋社は旧福岡藩士らによる政治結社で、
大アジア主義を目指しました。
玄洋社は太平洋戦争敗戦までの間、
政財界に影響力を持ったとされています。
「頭山満先覚之墓」。
頭山満は幕末時はまだ少年でしたが、
明治初期に多発した士族の反乱では、
進藤喜平太、箱田六輔らと共に、
※後の玄洋社メンバー。
士族の蜂起を画策しますが露見して投獄。
出所後に自由民権運動に参加して、
玄洋社の設立メンバーとなりました。
後に頭山の思想は民権運動から脱却し、
国家主義・アジア主義に移行。
右翼の巨頭・黒幕的存在となっています。
日本に亡命した独立運動家への援助を行い、
後のアジア独立にも間接的に貢献しました。
「高場先生之墓」。
高場乱は女性ですが男として育てられ、
男装帯刀して正式な元服もした人物で、
私塾興志塾(通称[人参畑塾])を開き、
医業の傍ら忠孝と節義を説きました。
塾生達の多くが後の玄洋社中心メンバーで、
高場乱は玄洋社の生みの親とされます。
人参畑塾の女傑とも称されていましたが、
彼女自身は生来虚弱だったようで、
華奢な女性であったとされています。
人参畑塾ってのが可愛らしいイメージで、
女性の開いた塾っぽいなと感じます。
※塾を開いた場所が人参畑の跡だった。
「来島恆喜之墓」。
来島恒喜は玄洋社メンバーで、
時の外務大臣大隈重信の暗殺を図り、
大隈に右足切断の重傷を負わせた人物。
馬車に爆弾を投げつけ爆発を見届けると、
来島は短刀で喉を突いて自殺しています。
■関連記事■
・千葉県市川市 法華経寺
頭山の胸像があります。
・福岡県福岡市 崇福寺/高場乱先生之像
後に高場乱の銅像が建立されました。