※2020/02/04 画像の一部差し換え。
崇福寺は元々大宰府にあった臨済宗寺院で、
黒田長政が関ヶ原の戦いの功績により、
筑前国52万石となった際に移転しました。
以後は福岡藩黒田家の菩提寺として、
福岡藩の庇護を受けて隆盛したようです。
廃仏毀釈運動の煽りで荒廃していたのを、
明治28年に渡辺玄外が住職となり復興。
後の福岡大空襲で多くの伽羅が焼失し、
墓所も破壊されて壊滅していましたが、
戦後に再整備されて、
墓碑などが新たに建立されています。
「崇福寺山門(旧福岡城本丸表御門)」。
二層造本瓦葺の切妻造の豪華な山門。
福岡城の本丸表御門を移築したもの。
「崇福寺唐門(旧名島城遺構)」。
小早川時代の名島城のものと伝わる唐門。
黒田長政が居城を名島城から福岡城に移し、
名島城を福岡城の建材にしましたが、
一部の唐門が崇福寺に移築されたという。
本堂や庫裏は現在一般公開されていません。
崇福寺墓地から黒田家墓所へ。
「藤水門」。
黒田家墓所の入口ですが、
門は閉まっており墓所へは行けません。
黒田家墓所へは迂回して裏手へ回ります。
「福岡藩主 黒田家墓所」。
巨大な笠塔婆型墓石が並ぶ黒田家墓所。
かつては現在の7倍の墓域を有し、
御霊屋、石塔、灯篭の他、
二十数基の墓碑堂塔がありましたが、
空襲により破壊されて荒廃。
戦後に改葬され合祀縮小しています。
「龍光院殿如水圓清大居士」。
黒っぽいものが藩祖黒田如水の墓。
如水は黒田官兵衛孝高の隠居後の号。
権力や武勲、領地及び戦さの功績が、
水の泡になったという意味とさせますが、
キリシタン大名であった為、
聖人ヨシュアをもじったとも。
個人的には哲学的な意味があると思います。
[水の如く]カッコいいじゃないですか!
この墓碑は創建当時のもの。
破壊されなくて本当に良かったです。
「興雲院殿前大中大夫
筑州都督古心道ト大居士」。
初代藩主黒田長政の墓。
豊臣秀吉に仕えて九州征伐や、
朝鮮出兵などで戦功を挙げており、
関ヶ原の戦いで島左近を打ち破ったり、
小早川秀秋や吉川広家との交渉も務め、
一番の功労者として感状を得ており、
筑後国52万石を与えられました。
しかし長政の墓碑は空襲で破壊されており、
この墓碑は新たに造られたものです。
「直方藩藩主合祀墓」。
直方藩(東蓮寺藩)は福岡藩の支藩でしたが、
4代黒田長清が無嗣となり断絶。
これら藩主の墓も空襲により破壊された為、
合祀された墓碑が建てられました。
「福岡藩藩主合祀墓」。
4~7、9、10代藩主の合祀墓。
2、3、8代藩主が抜けていますが、
彼らの墓所は博多区の東長寺にあります。
合祀されている10代藩主黒田斉清は、
植物や鳥類を愛す博物大名として知られ、
長崎でオランダ商館を訪問した際には、
シーボルトと本草学を語りあったとか。
黒田二十四騎の伝記編纂や、
家臣系譜調査を行っており、
繋がりを再確認させて結束を図り、
自らの海防論を海寇窃策に纏めています。
幕末の11代黒田長溥以降の墓所は、
東京の青山霊園にあり、
残念ながら福岡にはありません。
藩主の墓が東京という事は結構あり、
国許への改葬ケースも少なくありません。
しかしながらこの黒田家墓所は、
黒田家より福岡市に寄贈されていますので、
11代長溥や12代黒田長知の墓が、
ここに改葬されることは無いでしょう。
■関連記事■
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祥雲寺にある藩祖黒田長政の墓所。
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