上野宿は伊勢街道の宿場町で、
元々は伊勢上野城の城下町でした。
伊勢上野城は分部光嘉の築城で、
伊勢上野藩2万石の藩庁だった城。
光嘉は安濃津城の戦いで負傷し、
翌年にその傷が元で死去した為、
2代は外孫の分部光信が継ぎますが、
近江へ移封されてしまいます。
※分部家は近江で大溝藩を立藩し、
江戸時代を通じて存続しています。
伊勢上野城は廃城となっており、
残った城下町は宿場町へと変化し、
本陣や脇本陣、一般の旅籠や茶屋、
その他の商店が軒を連ね、
お蔭参りの旅人が行き交う宿場として、
他の宿場と同様の賑わいを魅せたという。
河芸町上野周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが上野宿跡。
「枡形①」。
宿場北側の枡形。
上野宿は北町、片町、鍛冶町、禰宜町、
新田町、中町、須崎町、南町で構成され、
家数300余軒、旅籠27軒もあったようです。
「上野宿跡の街並み」。
街道沿いには古そうな家はありますが、
その殆どがリフォームされており、
旧態依然とした家屋はそれ程多くない模様。
「秋田家住宅跡(上野公民館)」。
明治天皇が伊勢参拝の際に小休した場所。
往路、復路共に休憩したようです。
秋田家のついてはよくわかりませんが、
たぶん豪商だったのでしょう。
溝は真っ直ぐではなくギザギザしており、
旧城下町だった事を物語っています。
「弘法井戸」。
弘法太師空海が上野村を通った際、
一軒の豪家に立ち寄り水を所望しますが、
家人はこの辺りは赤水しか出ないので、
わざわざ遠くまで行って水を汲み、
弘法太師に水を出しました。
これに大変喜んだ弘法太師は、
「さぞ日々の飲み水に困っている事でせう。
ここを掘ってみなさい」と、
持っていた錫杖で指し示します。
家人がいうとおりに掘ってみると、
清水が溢れ出て井戸となったとのこと。
村人はこの井戸を大切に使用し、
お蔭参りの旅人もこの水を飲んだという。
「枡形②」。
弘法井戸の近くにある枡形。
この辺りに本陣や脇本陣があったようで、
宿場の中心たったとのこと。
更に街道は南に進みますが、
南側の枡形はよくわかりませんでした。
■伊勢街道/別街道/本街道の宿場町
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東海道と伊勢街道の追分跡。
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伊勢街道の2番目の宿場跡。