坂下宿は東海道の48番目の宿場町。
難所である鈴鹿峠の東側にありました。
江戸時代初期は1.3km西側にありましたが、
慶安3年(1650)に土石流で壊滅した為、
幕府の援助を受けて現在地に移転。
以後は東海道有数の宿場町となり、
大変な賑わいを魅せた宿場だったようです。
「歌川広重 東海道五拾三次 阪之下」。
筆捨山を望む茶屋の風景で、
坂下宿を東側に抜けた白木辺りの様子。
関町坂下周辺、緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが坂下宿跡。
北側から散策。
「上乃橋」。
上乃橋を渡ると坂下宿。
道路は広く拡張されており、
往時のままの道ではない模様。
「身代地蔵尊」。
上乃橋の袂に置かれた身代地蔵尊。
往時は旅人の安全を守っていたのでしょう。
街道沿いの旧家。
古い家屋はあるにはありますが、
それ程数は残っていません。
隣の関宿に比べるのは酷でしょうか?
坂下宿には本陣が3軒、脇本陣が1軒。
これらは全て現存していませんが、
跡地には石標が建てられています。
「小竹屋脇本陣跡」。
脇本陣を務めた小竹屋の跡地。
本陣の次に格式があるのが脇本陣ですが、
庶民も宿泊は可能だったようです。
中乃橋を渡ると宿場の中心で、
本陣が軒を連ねていました。
「梅屋本陣跡」。
本陣のひとつ梅屋の跡地。
梅屋は中乃橋の袂にありました。
「大竹屋本陣跡」。
梅屋本陣跡の隣は大竹屋本陣跡。
「松屋本陣跡(坂下集会所)」。
集会所が建つ松屋本陣の跡地。
更に街道は緩やかに下りますが、
古い家屋は一部だけで、
空地と新しい家が建っています。
先に進むと下乃橋に至り、
そこまでが坂下宿でした。
更に下ると鈴鹿馬子唄会館。
その入口に発祥地碑があります。
「鈴鹿馬子唄発祥之地」碑。
鈴鹿馬子唄は鈴鹿峠の馬子達が唄った唄。
馬子唄の中でも歴史が古いようで、
全国的にも知られる民謡。
馬子が旅人や荷物を馬に乗せて、
安全に和やかに峠を越して行ける様に、
馬に付けた鈴の音に合わせ唄ったという。
坂下宿は山地にあった宿場町で、
他の産業は殆ど無く経済を旅人に依存。
この為に鉄道や新道の開通で廃れ、
過疎化してしまっています。
本陣の建物が現存していたならば、
観光等で人も呼べたかもしれませんが、
石標だけでは僕のような物好き以外、
訪れる人はいないでしょう。
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