三重県亀山市 関宿跡

関宿東海道の47番目の宿場。
江戸~明治期の町屋が約2百軒も現存し、
往時の宿場風情を色濃く残しています。

東口から散策。

東の追分」。
関宿は古くからの交通の要衝であり、
古代三関のひとつ鈴鹿関が置かれ、
地名のはこの事に由来しました。
東の追分伊勢別街道との分岐点で、
京都から伊勢に参宮する際は、
この追分から別街道に入っています。


関宿の街並み」。
重要伝統的建造物群保存地区に指定され、
宿場跡は見事に往時の町屋が残っています。
地元有志らによる努力の賜物でしょう。


鶴屋脇本陣跡」。
脇本陣を務めた鶴屋西尾吉兵衛家跡
二階避面に千鳥破風の意匠のある建物で、
本陣を補佐する役割を持っていますが、
平時は一般の旅人も宿泊していたという。


川北本陣跡」。
本陣を務めた川北久左衛門家の跡地。
宿継問屋も兼任にしていたようですが、
建物は現存していません。


伊藤本陣跡」。
同じく本陣と務めた伊藤平兵衛家跡。
こちらは居宅と道具置場が現存しており、
電気屋さんになっているようですが、
全くそのように見えません。


歌川広重 東海道五十三次 關」。
歌川広重東海道五十三次では、
この伊藤本陣前が描かれており、
大名行列一行が早立しようとする様子が、
明けきらぬ早朝の雰囲気で表されています。


高札場跡」。
江戸初期に御茶屋御殿が置かれ、
本陣の役割を果たしていましたが、
後に本陣が定められてからは、
伊勢亀山藩の番所が置かれたようで、
街道に面した位置に高札場が設置され、
触書法度が掲示されていました。

更に進んで地蔵院へ。

地蔵院」。
天平13年(741)に行基によって建立され、
関の地蔵と呼ばれて信仰された寺院。
本尊は日本最古の地蔵菩薩とされ、
人々を天然痘から守っているという。
この寺に一休禅師の逸話が残っています。

 ある日の事、村人が地蔵院を修繕し、
 本尊の地蔵菩薩も洗い清めた際に、
 偶然にも関宿を通りかかった一休和尚に、
 地蔵菩薩の開眼供養を頼んだところ、
 一休はこれを快く引き受けました。
 しかし一休和尚は変な歌を詠んで、
 立小便をして立ち去ってしまったので、
 村人らは身なりの良い別の僧に頼み、
 開眼供養をやり直してもらいますが、
 高熱を発した村人に地蔵菩薩が憑依して、
せっかく名僧によって開眼したのに、
 つまらぬ供養のやり直しで迷わせるのか!
 元に戻せ!
」と口走ったという。
 あわてて桑名にいた一休和尚に嘆願し、
 事情を説明して助けを求めると、
 地蔵の首にかけるようにと下帯を渡され、
これを地蔵様の首に掛けた後、
 ワシの詠った歌を3回唱えよ
」と言い、
 これに従った言ところ、
 村人の高熱は下がったということです。



新所の街並み」。
地蔵堂を過ぎてもまだまだ宿場は続き、
西の追分に至ります。


西の追分」。
関宿の西端にある大和街道への分岐点。
大和街道は加太越えの後に、
伊賀から奈良に至る街道。
東海道を京都方向に向かうと坂下宿です。

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