岡山県岡山市 松琴寺/日置家墓所

松琴寺は貞和年間(1346-1349)に創建され、
戦国期には荒廃していましたが、
慶安年間(1648-151)に池田光政が再興。
文人墨客が好んで訪れるたとされます。
岡山藩家老家日置家の菩提寺でもあり、
享保12年(1727)に曹洞宗から改宗し、
臨済宗寺院となったようです。


松琴寺」。
本尊観世音菩薩
座禅会茶会が催されるようで、
精進料理も頂けるとのこと。


日置家墓所」。
参道右側に日置家歴代墓所があります。
日置家は池田恒興の頃から家老を務め、
池田宗家が岡山藩に転封されると、
金川1万6000石を与えられており、
代々岡山藩家老を勤めました。


普一院日豊別命黙機玄徹居士霊(右)」、
源水院月心妙元信女 霊位(左)」。
日置家3代当主日置忠明の墓と、
忠明の室源水院の墓。
忠明は2代日置忠治の嫡男として生まれ、
幼少期は幕府の証人(人質)となっています。
父の隠居により日置家の家督を相続し、
仕置家老として岡山藩を運営。
公正な人物であったと評価されました。

以降11代まで戒名で被葬者判断は出来ず、
当主と思われる墓碑を羅列致します。

鐵樹院心空英肝居士」。
被葬者不明。


玄乗院雲嶽了義居士」。
被葬者不明。


観地院前臚卿堪忠哉居士(右)」、
法相院偲雪良久大姉(左)」。
鴻臚卿玄蕃頭の事ですので、
7代日置忠芳とその室か?


龍雲院澤巖宗徳居士(左)」、
白林院連雪了溍大姉(右)」。
被葬者不明。


興雲院大淵玄龍居士(右)」、
眞光院圓臺良珠大姉(左)」。
被葬者不明。


大慎院道鐵山居士(右)」、
謙壽院温室良貞大姉(左)」。
被葬者不明。


圓機院玄諦英輪居士」。
被葬者不明。

3代忠明以降は、4代日置忠昌
5代日置忠盈、6代日置忠寿、7代日置忠芳 、
8代日置忠辰、9代日置忠英、10代日置忠章
11代日置忠弼と続いていますが、
墓の数がひとつ足りません。
もしかしたら5代忠盈の墓は無いかも?
※4代忠昌の死去の同年に病死した為。

以上は被葬者不明ですが、
12代当主からは確認出来ました。

従五位日置忠命」。
日置家12代当主日置忠尚(忠)の墓。
天城池田家9代池田政徳の次男で、
11代忠弼の養子となって家督を相続。
慶応4年に新政府の命で西宮警備に赴き、
藩兵を率いて神戸に差し掛かった際、
フランス人水兵が行列を横切り、
これが発端となって銃撃戦となります。
この事件は死者こそ出ませんが、
フランス以外も米英とも撃ち合った為、
大きな国際問題に発展してしまい、
諸外国は責任者の処刑を要求。
結局は交戦した日置家家臣滝善三郎が、
責任者として切腹して決着しており、
忠尚も謹慎処分となりました。
※神戸事件。
廃藩廃藩後は宮内省に出仕し、
晩年は90歳と長生きしたようで、
大正7年に死去しています。


従四位男爵日置忠信命」。
日置家13及び15代当主日置忠信(健太郎)の墓。
天城池田家10代池田政昭の次男で、
叔父の12代日置忠尚の養子となります。
忠尚の隠居で日置家の家督を相続しますが、
維新後に福島県安積原野の開拓を志し、
明治13年に日置家を離れて、
親族の小松家の家督を相続。
大規模農業酪農経営を行いますが、
経営的にうまくいかず明治30年に帰郷。
日置家に戻って再度家督を継承し、
旧藩主池田章政の資金援助を受けて、
私立養忠学校を設立しました。
明治37年には私立金川中学校を設立し、
初代校長に就任。
明治44年に娘夫婦と共にイスラム教へ入信。
大正11年に死去しています。


従五位日置尚大人之墓」。
日置家14代当主日置尚の墓。
忠信の長男として生まれ、
父が開拓事業を志して日置家を離れ、
これに伴い家督を継ぎますが、
後に開拓事業から父が戻ると、
日置家の家督を父に返しています。
明治44年、死去。

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