清泰院は岡山市南区にある禅宗の寺院。
他の宗派には属さない単立の寺院で、
鳥取藩池田家初代池田忠継及び、
2代池田忠雄の墓があります。
「本堂」。
慶長14年(1609)に池田利隆が建立、
※利隆は忠継や忠雄の兄で宗家2代。
始めは法源寺と称しており、
市内の小橋町にあったようです。
慶長20年(1615)に忠継が死去すると、
家督を継いだ弟忠雄が忠継の菩提寺とし、
兄の戒名から龍峰寺と改称。
後に忠雄もここに葬られており、
忠雄の戒名より清泰院と改められました。
後を継いだ忠雄の子池田光仲は、
鳥取藩へと転封されていますが、
その後も鳥取藩から保護されており、
藩士の派遣や経費支給が行われ、
廃藩まで手厚く庇護されたという。
昭和39年に新京橋の架橋に伴い、
現在地に移転して現在に至ります。
「池田家墓所」。
本堂の裏手が池田家の墓所。
事前に調べたところによると、
通常は門が閉ざされているようですが、
夏休み期間(?)の為か開放されていました。
「池田忠継廟」。
鳥取藩池田家初代(岡山初代)池田忠継の廟。
単層入母屋造で葵紋があしらわれています。
内部の須弥壇には忠継座像と位牌が置かれ、
廟の真下に忠継が埋葬されていとのこと。
忠継は池田輝政の五男(公式には次男)で、
母は徳川家康の次女督姫。
家康の外孫という立場から、
僅か5歳で岡山28万石を与えられ、
異母兄の利隆に政務を代行されつつ、
幼少期は父母と共に姫路城で暮らします。
父の死後に初めて岡山入りしており、
その際に宗家より10万石を分与。
38万石の大大名となりました。
兄と共に大坂冬の陣に参戦しますが、
翌年に岡山城で急死。
母督姫が実子忠継に宗家を継がせる為、
毒饅頭を利隆に食べさせようとしますが、
これを察した忠継が毒饅頭を奪い、
自ら食べて死んだという説もあり、
昭和39年に遺体が調査されていますが、
毒死の形跡は発見されなかったようです。
「清泰院殿四品議仁秀良勇大居士」。
鳥取藩池田家2代(岡山藩2代)池田忠雄の廟。
忠雄も督姫の子で輝政の六男(公式には三男)。
忠継と同じく家康の外孫という立場から、
洲本6万石を与えられていました。
元和元年(1615)に兄忠継が急死した為、
岡山藩主となっていますが、
その際に同母弟池田輝澄、池田政綱、
池田輝興に領地を分け与えており、
岡山藩は31万5200石となっています。
治世では岡山城の拡張や城下の整備、
新田開発、治水事業を積極的に進め、
大坂城改築の普請にも参加。
大坂城に多くの巨石を運び込みました。
寛永7年(1630)には小姓の渡辺源太夫が、
藩士河合又五郎に殺害される事件が起こり、
河合は出奔して旗本安藤正珍に匿われた為、
旗本安藤家との争いに発展。
忠雄は2年後に疱瘡で死去しますが、
河合の誅殺を遺言しています。
これが[鍵屋の辻の決闘]に繋がり、
源太夫の兄渡辺数馬が河合を追って、
荒木又右衛門の助太刀でこれを討ち、
その本懐を果たしました。
「芳春院墓」。
忠雄の正室三保姫の墓。
五重塔型で忠雄の墓の右隣にあります。
三保姫は徳島藩初代蜂須賀至鎮の長女で、
3代(鳥取藩初代)池田光仲を産みました。
忠雄に先立って死亡していますが、
同年に忠雄も死去しています。
「前典膳郎義雲開節禅定門」。
近習頭加藤主膳正の墓。
加藤は忠雄に殉死した家臣ですが、
墓碑は巨大で藩主の左隣に建立されており、
格別な扱いを受けています。
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