久坂玄瑞って人は、結構知名度がありますが、
禁門の変で死んじゃって、
結局あんまり何にも成してないような気が・・。
松蔭門下で高杉晋作と共に双璧とされてたのですが、
どれだけの人なのか考えてみましょう。

まあ結論から言いますと、生前はかなり名の通った人だった様子。
長州で言えば、桂小五郎と同等に知名度があったようですね。
われらが晋作は知名度的にはも一つランク下がるようです。
その理由は、活動でしょうか?
他藩の志士達と積極的に交わったり、
朝廷にも太いパイプを持っていました。
また、桂と違ってイケイケで、
英国公使館焼き討ちにも参加してますし、
光明寺党を結成して外国船砲撃も行っております。
まあ、そんなわけで「長州の久坂」といえば、
有名だったらしいですが、もう一つ理由を挙げれば、
かなりの美丈夫だったそうですね。
身長、六尺(約180cm)、声が大きく美声で、
肖像画でもわかるように男前だったようです。
そんな久坂が、京の花街を唄を吟じながら歩けば、
皆が振り返るほどだったようです。
ちなみに肖像画は久坂の忘れ形見を参考に、
描かれたものらしいです。
最後もかっこいいですね。
長州の暴発を止めようと苦心しますが、
最後は覚悟を決めて参戦。
鷹司邸に立てこもり最後の嘆願し、
それも叶わず入江九一に、
君主と世子に京に近づくなと伝言して自刃。
渋すぎますね。
西郷隆盛は言います。
「今、俺が少しばかりの手柄があったからといって、
皆にチヤホヤされるのは、額に汗が出るような気がする。
もし藤田東湖先生や久坂玄瑞、
その他の諸先輩が生きておられたなら、
到底その末席にも出られたものではない。
それを、ああいう先輩方が早く死なれたために、
俺のような者が偉そうに言われるのは、
恥ずかしゅうてならぬ」
これは、頭山満に言っている言葉なので、
旧水戸藩や旧長州藩のおべんちゃらとは思えません。
藤田は西郷より年上ですが、久坂は西郷よりかなり弱輩。
西郷の久坂に対する評価のほどが伺えますね。
現在の知名度は吉田松陰や高杉晋作によるものですが、
当時の知名度を考えれば、
松蔭や晋作の添え物みたいな扱いではなく、
違う評価のされ方をしてもいいのではないでしょうか?
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