栃木県足利市 足利陣屋跡と足利学校

足利市といえば最古の学校とされる足利学校と、
足利将軍家の菩提寺である鑁阿寺ですが、
そこには足利藩という小さな藩がありました。

宇都宮戸田家初代戸田尊次の五男戸田忠時が、
6代将軍徳川家宣御側役を務め、
後に1万1千石を与えられて諸侯に列し、
歴代藩主は大坂定番奏者番などを務めました。
宇都宮戸田家の分家筋ですので、
宇都宮藩支藩と書かれることもありますが、
領地は幕府よりされた与えられていますので、
それは間違いです。
※足利藩立藩時の宇都宮戸田家は田原藩主。
 佐倉藩、島原藩を経て宇都宮藩主となっています。



JR足利駅北西側周辺(足利陣屋の場所)
陣屋のあった場所は、現在の雪輪町一帯。


陣屋大門」碑。
この路地を進んでいった先に陣屋の大門があったので、
この道は「陣屋大門」と呼ばれたとの事。
つまりこの場所に陣屋の大門があったわけではありません。


陣屋跡」説明板。
陣屋大門の路地を進んだ先にある説明板。
たぶんこの場所に陣屋の大門があったと思われます。
陣屋の敷地であった雪輪町ですが、
町名の由来は戸田家の馬印雪輪」からとの事。

周辺に陣屋時代の井戸があるということでしたが、
一帯を捜し歩いても見つからない。
時間もなかったので探すのはあきらめました。


鑁阿寺」。
元々は足利氏の祖である源義康の邸宅跡で、
その後に足利氏の氏寺となりました。
境内は足利陣屋よりも大きく、
さすが元将軍家の菩提寺なだけあります。


鑁阿寺本堂」。
国宝の本堂は、足利尊氏の父足利貞氏が、
正安元年に再建したもの。
日本古来の建築様式である「和様」に加え、
宋から伝わった建築様式「禅宗様」を採り入れ、
新たな様式の「折衷様」として、
その後の日本建築に影響を及ぼしたとの事。
この本堂は、いち早く禅宗様を取り入れた建築として、
極めて高い価値を有しているそうです。


足利学校」。
平安若しくは鎌倉時代に創設された高等教育機関。
関東における事実上の最高学府だったようですが、
江戸時代には朱子学の官学化によって、
易学中心の足利学校は時代遅れになり、
足利学校は衰微していましたが、
学者達は貴重な古典籍を所蔵する図書館として、
利用していたようです。
嘉永5年には吉田松陰が足利学校を訪れ、
高杉晋作試撃行の際に(たぶん)訪れました。


学校門」。
學校」と扁額された唯一の門らしい。
たしかに「○○学校」ってのはあるでしょうが、
ただ「学校」とだけ書かれたものは無いかも。


孔子廟」。
聖廟とも呼ばれる孔子を祀ってある廟堂。
建物の正式名称は「大成殿」で、
寛文8年に造営されたものです。
扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王の子で、
京都知恩院門跡となった尊超入道親王の書。


方丈」と「庫裏」。
巨大な畳敷き寄棟造りの建物。
方丈には徳川歴代将軍の位牌が安置されており、
講義や学習、様々な行事に使われた場所。
庫裡は釜戸のある土間や台所、
畳敷きの四部屋、湯殿などがあり、
庠主や学生の日常生活の場だったようです。

足利学校を出て国道293号を渡って、
移築された陣屋の表門へ。

足利陣屋移築表門」。
相当状態が悪いようで今にも崩れそうです。
個人の持ち物なのでしょうけど、貴重な遺構ですので、
公的な資金で修理などしたほうが良いと思いますね。

足利藩最後の藩主戸田忠行は、
先々代藩主戸田忠録の子でしたが、
忠録は忠行が生まれる前に死去しており、
宇都宮藩からの養子戸田忠文が跡を継ぎますが、
忠文は3年後に死去した為、末期養子となりました。
幕政に参加し、文久2年に大番頭となりますが、
翌年には大番頭職が廃止されています。
藩政では、藩士俸禄の削減、文武の奨励が行われ、
軍制には蘭式を採用して、西洋調練掛も設置しています。

天狗党の乱では、藩医鈴木千里と子の刈谷三郎が参加。
都賀郡に領地があった関係から、
天狗党と大平山退去の交渉をしています。
また足利藩の支配する栃木宿が放火され、
藩士らは天狗党に応戦しました。

慶応3年、忠文は陸軍奉行並仏国陸軍伝習方に任命され、
後に足利藩の軍制はフランス式に改められます。
大政奉還後も下野路挙兵などに討伐隊を派遣し、
佐幕寄りの姿勢を崩しませんでしたが、
徳川慶喜寛永寺で蟄居すると新政府に恭順。
戊辰戦争に出兵し、梁田戦争戸倉戦争に参加しました。

【足利藩】
藩庁:足利陣屋
藩主家:庄右衛門流戸田家
分類:1万1000石、譜代大名(宇都宮藩支藩)

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