出張で長野県松本市に行ってきました。
仕事を終えて帰る際にちょっと電車の時間があったので、
松本駅から歩いて松本城に行ってみました。
「松本城天守閣」。
松本城は全国に12ある現存天守のひとつで、
その中でも4つしかない国宝天守のひとつです。
※他3つは犬山城、彦根城、姫路城。
譜代大名の城だけに、6回も藩主家が代わっており、
石川家、小笠原家、戸田松平家(1回目)、松平(直政)家、
堀田家、水野家と代わり、
幕末当時は再び戸田松平家が藩主家となっている。
この藩主家の中の水野家ですが、
長府毛利家とちょっと面白いイザコザを起こしています。
8代将軍吉宗の頃、6代藩主水野忠恒が、
当時世子であった長府7代藩主毛利師就を、
松の廊下で斬りつけるという事件が起こりました。
忠恒は日頃より酒におぼれ、遊興にふけり、短慮で、悪食で、
気性も荒いというロクデナシだったようで、
自分の遊興の為に2000人近くを動員して、
鷹狩や松茸狩なんかしてたようです。
・・で、斬りつけた理由が、
自分が奇行ばかりしていて、藩政に全く関わらなかったので、
水野家を改易し、領地が毛利家に与えられるという妄想に駆られたから。
完全にイッちゃった理由で斬りつけられた師就はいい迷惑でした。
その件がもとで、結局水野家は改易・・・。
忠恒は乱心として医師の監視付で川越藩にお預けになりました。
浅野内匠頭のように切腹にならなかったのは、
幕府内で水野家の力が強かったからでしょうか?
城に行っても普段なら外から眺めるだけで、
入場料払って天守の中まで入ったりしないんですが、
今回は国宝ということと、入らなければ見れないものがあったので、
入場料610円払って入ってきました。
「戊辰戦争出兵紀念碑」。
松本市の数少ない幕末関係の碑。入場料を払った理由のひとつです。
ですが案内地図にも載ってない。案内員に聞いても知らない人がいる。
挙句の果てに、碑の前に雪掻きの機械が置いてある始末・・・。
まあ、これ目当ての人って居ないだろうねぇ。
気を取り直して天守の中へ。
中はさすが現存天守だけあり重厚な造りで、
当時の雰囲気を感じさせてくれます。
靴を脱いで入らなければならないんですが、
スリッパがあることに気づかず、靴下のまま場内を見てまわる。
だんだんと足が冷えてきて、
当時の人の寒さを図らずも体感することができました。
場内で幕末モノを発見!
「松本城鉄砲蔵」と称した火縄銃を主とした鉄砲関係の展示。
色々な江戸期の銃がありました。
1861年製ピストル・・・
1861年といえば文久元年!もろ幕末です。
銃の種類詳しくないけど、元込式って事は幕末ですよね。
他にも色々な銃がありました。
銃のコレクションを見るだけでも価値ありです。
「月見櫓」。
月を見るための櫓。風流ですよね。
戸を外すと三方が吹き抜けになってとっても優雅。
中はこんな感じ。
3代将軍徳川家光を迎える為に増築されたそうです。
月見櫓を持つ天守はここだけらしい。
水野家が改易された後、再び戸田松平家が入府。幕末まで続きます。
幕末の松本藩といえば、城下の名主近藤茂左衛門が尊攘運動を展開。
江戸で水戸藩の御用達も務めていた関係から、
水戸藩主徳川斉昭の知遇を得て、公家や志士などと交流します。
戊午の密勅の仲介に活躍しますが、幕府ににらまれ捕えられました。
これが安政の大獄の一環として、中追放、家財没収となっています。
また、松本藩が英国公使館の置かれた東禅寺の警衛役に任命されると、
藩士伊藤軍兵衛は、外国人の為に大量の藩費が使われる事を憂い、
東禅寺に忍び込んでイギリス人水兵2名を殺害。その後、自刃しました。
(第二次東禅寺事件)
藩兵は天狗党の鎮圧に出兵していますが、和田峠の戦いで敗北。
禁門の変、長州征伐の一次・二次にも出兵していますが、
松本藩は戦闘には参加していません。
鳥羽伏見後、勤皇・佐幕に家臣の意見が分かれますが、
9代藩主松平光則が藩論を勤皇にまとめて、
官軍の松本到着直前に恭順しました。
その後、藩兵は宇都宮、北越、会津を転戦しています。
松本城下には、至る所に井戸や湧水が点在していました。
「大名町大手門井戸」。
平成の名水百選として「まつもと城下町湧水群」が選ばれており、
美ヶ原などの山岳地帯や扇状地が涵養した地下水が豊富のようです。
この辺まで来ると本州の西の果てからは、なかなかハードルが高い。
今回、松本市にも下関から片道6時間を要しました。
【松本藩】
藩庁:松本城
藩主家:戸田松平家(戸田宗家)
分類:6万石、譜代大名
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