堺事件。
慶応4年2月15日。
仏海軍の軍艦デュプレクスの乗組員は
堺港の測量を行い、堺に上陸して遊び騒いでいました。
この状況を近隣住民が苦情を訴えた為、
土佐藩の警備隊が出動して水兵達に帰艦を促します。
言葉が通じなかったのか水兵達は指示を聞かなかった為、
警備隊は水兵を捕縛しようとしましたが、
水兵らは警備隊の隊旗を奪って逃走しようとした為、
警備隊は水兵らに発砲。
これを機に銃撃戦が行われた末、
水兵側に11名の死者が出ました。
駐日仏公使レオン・ロッシュは、新政府に抗議書を提出。
下手人斬刑や賠償など5条を要求し、
新政府はその全ての要求を受け入れています。
要求された5条は、
①下手人を日仏両国立会のうえで斬刑。
②15万ドルの賠償金の支払。
③親王の謝罪。
④土佐藩主の謝罪。
⑤土佐藩士の武装しての開港場への出入禁止。
土佐藩は警備隊士全員を吟味し29名が発砲を認め、
新政府にその旨を報告します。
これに弱腰を非難される事を避けたい新政府は、
処罰者の数を減らす事をフランス側と交渉し、
最終的に20名の処罰が決定されました。
4名の指揮官は責任者として処罰が決定しましたが、
残る16名は25名の隊士からクジ引きで決められ、
選ばれた20名が、妙国寺で切腹する事になります。
仏艦長アベル・デュプティ=トゥアールらの立会いの下、
一人ずつ切腹が行われ、無念の土佐藩士らは、
切った腹から自らの腸を掴み出し、
居並ぶフランス水兵を大喝。
次々に展開される凄惨な光景にフランス兵達は戦慄を覚え、
12人目の橋詰愛平の番で堪らず中止を要請。
橋詰を含む9名の切腹が中止されました。
壮絶な切腹を遂げた11名の遺体は、
妙国寺の隣の宝珠院に葬られています。
「土佐藩十一烈士墓」碑。
宝珠院は幼稚園を経営しており、
境内には遊具や園舎があります。
訪問時は夕方で門は閉まっていましたが、
呼鈴がありましたので、
「遠方より来ましたので参らせて下さい」と言うと、
入れてくれました。
「土佐藩十一烈士の墓」。
切腹した11名は、箕浦猪之吉元章、西村佐平次氏同、
池上弥三吉光則、大石甚吉良信、杉本広五郎義長、
勝賀瀬三六稠迅、山本哲助利雄、森本茂吉重政、
北代堅助正勝、稲田貫之丞楯成、柳瀬常七義好
彼らは切腹した妙国寺に葬られる予定でしたが、
妙国寺は勅願寺であった為、
葬るのは不都合という宇和島藩主伊達宗城の意見で、
宝珠院に葬られましたが、
死して異人に一泡吹かせた事が話題となり、
連日多くの人が参拝に訪れたとされます。
「仏蘭西兵士之碑」。
十一烈士の墓の近くには、
死亡したフランス水兵の慰霊碑もあります。
さて、切腹を免れた9名は配流処分となり、
その後に許されますが、
その中でギリギリで中止となった橋詰愛平は、
十一烈士の墓守として暮らし10年後に死去。
彼の墓は十一烈士の隣に建てられています。
「橋詰愛平の墓」。
橋詰は潔く死んだ同僚に続けなかった事を遺憾に、
帰りの駕籠の中で舌を噛み切りますが死にきれず、
残された命を同僚らの供養に捧げました。
下手人の斬刑以外のフランスの要求も執行され、
15万ドルの支払、山階宮晃親王や、
土佐藩主山内豊範の謝罪、
土佐藩兵の移動が速やかに行われています。
フランスの水兵達は、隊旗を奪ったとされますが、
これは武士に限らず軍人にとって大きな意味があるのは、
フランス人でも理解していたはず。
この事件は新政府の完全な弱腰外交でした。
しかし、それが大きな避難の対象とならなかったのは、
彼らの壮絶な切腹のおかげといえるでしょう。
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