滋賀県高島市 藩校修身堂跡

JR近江高島駅より圓光寺へ向かう途中、
建築会社の木材倉庫があり、
その傍らに石標が建てられていました。


藩校修身堂跡」。
修身堂は8代藩主分部光賓が創設し、
儒臣中村鸞渓文芸奉行として教育にあたり、
子弟は8歳で入学が義務付けられました。
儒学の他に算術筆道習礼を教え、
13歳未満の者には心学者手島堵庵の著述を、
始業前に誦読させて道徳を付けさせています。

大溝藩は小藩ながら学問を好む気風があり、
流罪されて大溝藩が預かった近藤重蔵を、
賓客のように扱ったという。


瑞雪院」。
瑞雪院は藩主菩提寺圓光寺の塔頭。
近藤重蔵の墓所があります。

近藤は御先手組与力でしたが、
学才があった為に出世を繰り返し、
北方調査の意見書を提出して、
蝦夷地探検調査開拓を行っており、
その功績によって将軍徳川家斉にも、
御目見を許されていました。
しかし自信過剰で傲慢な性格の為か、
これ以上の出世は望めず左遷され、
しかも息子が殺害事件を起こしてしまい、
これに連座されて流刑処分となり、
大溝藩が預かっていました。


近藤守重之墓」。
学識があり蝦夷地探検の経験もある近藤は、
大溝藩にとって格好の人物であり、
幕府から預かった罪人とはいえ丁重に扱い、
所望する書物などを与えて、
藩士らと積極的に交友させていました。
近藤も領内を散策して収集した植物で、
本草学書「江州本草」全30巻を著しており、
ある程度の自由を与えられています。

11代分部光貞は文武に通じ、
参勤交代で江戸に出仕するたびに、
儒者佐藤一斉河田屏浦川田甕江等を招き、
四書五経を藩士と共に受講したという。
後に川田甕江を脩身堂の客員教授として招集。
藩士子弟の指導にあたらせました。
※川田は後に半禄で備中松山藩へ仕官。

脩身堂での日常の行動は、
脩身堂条目」に制定されており、
当番の3人の生徒は学内の掃除を行い、
先生到着時は玄関障子際まで出迎える、
13歳以上の登校にはを着用する等、
現在の学校のような規則があったようです。

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