呼坂宿を東側に抜けて県道8号線を北側へ。
寺嶋忠三郎誕生の地を示す案内板があります。
この案内板横の路地に入ります。
「西原集会所」。
路地の先には地元の集会所が。
この敷地に碑が建てられています。
「刀山寺島先生碑」。
寺嶋忠三郎の顕彰碑。
刀山は寺嶋の号です。
寺嶋は天保14年にこの地に生まれ、
安政5年に藩校明倫館で学び、
吉田松陰の松下村塾にも入門しており、
兵学、詩文に優れていたという。
松陰の死後は尊王攘夷運動に奔走し、
航海遠略策を唱える長井雅楽の暗殺を計画。
これが発覚して処分を受けますが、
後に長井は失脚して切腹となります
その後江戸に出て高杉晋作、久坂玄瑞らと共に、
御楯組を結成して英国公使館を焼き打ち。
京都に赴いて久坂と共に朝廷工作を進め、
幕府に攘夷期限を定めさせることに成功し、
下関で光明寺党を結成して攘夷戦に参加。
しかし八月十八日の政変が発生し、
長州藩は宮門警衛の任を解かれてしまう。
寺嶋は久坂と共に失地回復に奔走しますが、
藩論は進発に傾き禁門の変が勃発。
寺嶋は浪士隊として戦闘に参加し、
久坂らと共に鷹司邸に侵入して、
鷹司輔煕に朝廷への参内を嘆願しますが、
拒否された為に久坂と刺し違えました。
「贈正四位寺嶋忠三郎先生辞世(右)」碑、
「寺嶋忠三郎誕生の地(左)」碑。
こちらは辞世の刻まれた碑と誕生地碑。
賊 勢 如 潮 砲 雨 飛
快 哉 我 死 興 心 違
日 岡 草 木 秋 将 残
首 陽 猶 期 留 晩 暉
訳:賊の勢力は潮の如く 砲は雨のように飛ぶ
我は死地に達して快なり
日向の草木は秋を残している
太陽はなお夕日を留めている
悲壮ながら清々しい七言絶句です。
・・後で知ったのですが、
この先に寺嶋家の菩提寺だった報恩寺の跡があり、
忠三郎の遺髪墓と弟寺嶋直道の墓があったらしい。
リサーチ不足でした。
■関連記事■
・山口県山口市 朝日山招魂社
寺島の招魂墓もあります。
・京都府京都市 京都霊山護國神社②
霊山墓地にある寺島の招魂墓。
・京都府京都市 蛤御門
禁門の変の激戦地。