大音寺は寺町通りにある浄土宗の大寺院。
皓台寺、本蓮寺と共に長崎三大寺とされます。
「大音寺」。
本堂は原爆の被害にも耐えていましたが、
戦後の放火によって焼失しており、
現在の建物はその後に再建されたもの。
白い本堂ってなかなか赴きがありますね。
文化5年(1808)8月15日。
英国艦フェートン号は蘭国旗を掲げ、
国籍を偽って長崎へ入港しました。
出島のオランダ商館は商館員2名を派遣し、
入港した自国船を歓迎しようとしますが、
突如この2人が拉致されて船に乗せられ、
蘭国旗が降ろされて英国旗が掲げられます。
長崎奉行所ではこのフェートン号に対し、
2人の商館員を解放を要求。
しかしフェートン号からは、
水と食料を要求する返書があるのみ。
そこで長崎奉行松平康英は戦闘準備を進め、
警備を担当する佐賀藩、福岡藩に対し、
フェートン号の拿捕、焼討の準備を指示します。
しかし佐賀藩が守備兵の削減を無断で行い、
兵力が本来の1/10程度しかいないのが判明。
急遽康英は九州諸藩に応援を要請しますが、
翌日にフェートン号は人質1人を解放すると、
再度水と食料の提供を要求し、
この要求が受け入れられない場合は、
港内の船を焼き払うと威嚇してきます。
康英は人質を取られて兵力もない状況の為、
出島のカピタンの勧めで要求受け入れを決定。
補給の積み込みと人質解放が行われますが、
その翌未明に応援の大村藩が到着しました。
康英は大村藩兵と戦闘準備を進めますが、
この間にフェートン号は出航してしまいます。
侵入船の無謀な要求に応じてしまい、
国威を辱めた事を恥じた康英は切腹して自裁。
無断で兵力を減らしていた責任で、
佐賀藩家老数名も責任を取って切腹。
佐賀藩主鍋島斉直も閉門処分となりました。
この事件の責任で切腹した松平康英の墓が、
大音寺本堂の北側にあります。
「松平図書頭墓所」。
長崎奉行松平康英の墓所。
綺麗に整備されて手入れも行き届いている様子。
康英の墓目当ての観光客もいるでしょうし、
供養もしっかりなされている事でしょう。
「現光院殿従五位下前図書俊譽淨雄大居士」。
逆光により角度を変えて撮影しました。
康英は高家旗本前田清長の三男として生まれ、
大身旗本松平康疆の婿養子となって家督を相続。
順調に出世して長崎奉行に就任し、
フェートン号事件が発生した際には、
強硬姿勢を貫こうとしますが、
兵力不足でこれを断念して要求を受け入れ、
これを屈辱として自裁に至りました。
職務に忠実で責任感が強く、
気骨のある人物だったようで、
自らを罰した康英の行為は敬愛されますが、
幕府の公式な記録では病死とされました。
長崎の人々は康英の霊を諏訪神社境内に祀り、
康平社(図書明神)を新設しています。
※現在の諏訪神社境内社の祖霊社。
■関連記事■
・佐賀県佐賀市 佐賀城跡
事件当時の警衛当番は佐賀藩。
・福岡県福岡市 福岡城跡
佐賀藩と共に警護を担当した福岡藩。
・長崎県大村市 玖島城跡
出兵して駆け付けた大村藩。