黒田家以前の筑前領主小早川秀秋の居城は、
博多湾に突き出した丘陵の名島城でした。
名島城は防御には適してはいましたが、
立地的に城下町整備の余裕が無かった為、
その後に筑前に入封した黒田長政は、
福崎に新しく居城の建設を決定します。
黒田家ゆかりの備前国福岡にちなみ、
築城の際に福崎の地名を[福岡]に改称。
福岡は那珂川を挟んで博多の西側に位置し、
城下として最適な場所だったようです。
「下之橋御門」。
福岡城の大手門にあたる門。
元々は二層の櫓門だったようですが、
明治期に一層に改装されており、
空襲の戦火を免れて現存していましたが、
平成12年に不審火で焼失してしまいます。
後に平成20年に二層櫓門に復元され、
現在の下之橋御門となりました。
明治初期の下之橋御門。
福岡城へ入城する門はこの下之橋御門と、
東側の上之橋御門、搦手の追廻門の33つ。
現在も本来の位置を保っているのは、
この下之橋御門のみです。
「黒田如水公御鷹屋敷跡」。
下之橋御門を通ってすぐの小高い場所。
黒田如水が居住した三ノ丸御鷹屋敷跡です。
本来ここは本丸より高い山があったようで、
それを崩して隠居屋敷を建てたとされ、
現在はボタン・シャクヤク園。
「名島門」。
名島城の脇門だったもので、
黒田二十四騎の一人林掃部に下げ渡され、
林の屋敷門として使用されていました。
後に玄洋社の平岡浩太郎の自宅門となり、
平岡の孫によってここに移築されました。
「旧母里太兵衛邸長屋門」。
日本号を飲み取った母里太兵衛。
彼の屋敷の長屋門が移築現存しています。
「舞鶴公園」。
本丸及び二の丸は福岡県庁が置かれた後、
陸軍の駐屯地となっており、
戦後に公園化され舞鶴公園となっています。
公園名の由来は福岡城の別名舞鶴城から。
「二の丸梅園」。
約280本の梅が植えられています。
「本丸表御門跡」。
二の丸から本丸に登る正門。
訪問時にはテントが建てられており、
何かな??と見てみると、
チームラボのイベント
「福岡城 チームラボ 城跡の光の祭」
が開催中との事。
午後6時よりデジタルアート空間に、
本丸跡が変身するという。
みよちゃんが見たいというので、
夜にもう一度来ることにて本丸内を散策。
表御門は菩提寺崇福寺に払い下げられ、
移築されて崇福寺の山門となっています。
※記事はこちら。
「祈念櫓」。
本丸表御門跡をのぼると現れる祈念櫓。
この祈念櫓は鬼門封じの櫓だったようで、
万延元年に竣工したようです。
大正7年に崇福寺に払い下げられ、
末寺の大正寺(北九州市)に移築され、
大正寺の観音堂に使用されていましたが、
昭和53年に元の場所に戻されました。
元々は白漆喰壁の櫓だったようですが、
大正寺移築時に大幅に改装されたようです。
「本丸跡」。
イベント用のバルーンが沢山・・。
本来は本丸御殿があった場所で、
公式政務を行う藩庁である表御殿と、
藩主の住居の奥御殿が建てられていました。
「鉄御門跡」。
大きな天守台に似合わない狭い入口。
文字どおり鉄製の門があったようで、
敵の侵入を防ぐために幅が狭いらしい。
本丸まで敵の侵入を許した時点で、
もうすでにアウトだと思いますけどね。
少数の人間しか入れない門という説も。
「天守台」。
福岡城にはこの大きな天守台がありながら、
天守は無かったという説もあります。
幕府に遠慮して天守台は造ったものの、
天守は建てなかったとされますが、
近年に見つかった資料には、
天守があったが取り壊したと書かれ、
天守があった可能性が出てきました。
また天守台周辺の発掘調査を行った際には、
瓦片の出土もあり建物があったことは、
とりあえず証明されています。
約40個の礎石が配置されています。
天守台より本丸跡を望む。
これが昼の景色ですが、
イベント期間中なので、
夜になると大変なことになります。
南側からの天守台。
「多聞櫓」。
二の丸南郭(南丸)にある多聞櫓。
場内に残る数少ない現存建屋です。
「追廻橋」。
福岡城の搦手である追廻門へ通じる追廻門。
南側福岡護国神社の向かいにあります。
一旦福岡城の散策を終え、
例のイベントの為に夜まで待つことに。
少し時間があるので大濠公園へ。
「大濠公園」。
福岡城の外堀。
入江でもあった草香江を公園化したもの。
池を二つに分けるように連なる小島に、
橋を掛けていることが特徴です。
ジョギングする人や散歩する人が多く、
市民の憩いの場となっており、
スタバがあったり遊具があったりと、
時間をつぶすにはもってこいの場所でした。
寒いので橋を渡るのはやめて、
みよちゃんとゆきちゃんと遊具で遊ぶ。
遊具で遊ぶみよちゃんに付き合いながら、
暗くなるのを待ちました。
・・・で、午後6時。
あたりが暗くなったので本丸に向かいます。
人多い!
どこから湧いたんだと思うほどの人!
チームラボだしな・・そりゃそうだわな。
本丸跡は昼間とは全く違う風景。
無数にあったたまご型バルーンは、
光の色を変化させます。
天守台に登って本丸を望むと、
これまた昼間とは別世界。
プロジェクションマッピング。
花弁の動物たちが歩いたりしています。
動物達をさわると鳴き声が聞こえました。
どうなってるんだろ?
たまご型のバルーンは触れます。
みよちゃんやゆきちゃんも大喜びでした。
思いがけない家族サービスが出来ましたね。
幕末の福岡藩には尊攘派筑前勤王党がおり、
薩長同盟は彼ら無しでは無理だったとされ、
五卿の大宰府への移動にも貢献しています。
しかし藩主黒田長溥は佐幕派で、
尊攘派を快く思っていませんでした。
家老の加藤司書は藩主別邸を建設し、
海からの攻撃に備えようとしましたが、
その別邸に幽閉するつもりであると、
長溥が聞いたことで乙丑の獄が発生。
加藤司書は切腹。
中心的存在の月形洗蔵らは斬首。
女流勤王歌人野村望東尼も流刑。
その他多くの尊攘派が弾圧されるに至り、
筑前勤王党は壊滅しました。
その後、幕長戦争で長州藩が勝利し、
福岡藩の藩論は勤皇へと移行しますが、
尊攘派の壊滅した藩では人材が皆無となり、
戊辰戦争へも良い兵を送ることが出来ず、
大砲の音を聞いて逃げ出す連中か、
反対に粗野で乱暴者だけの軍となっており、
他の官軍から疎んじられたとされています。
明治3年に太政官札偽造事件が発生。
その後の調査で藩首脳部の関与が判明し、
藩知事黒田長知は解任されます。
後任は有栖川宮熾仁親王が就任し為、
事実上の改易、廃藩となってしまい、
時を待たず廃藩置県が行われた為、
黒田家が改易された事は知られていません。
【福岡藩】
藩庁:福岡城
藩主家:黒田宗家
分類:47万3000石、外様大名(国持)
■関連記事■
・福岡県福岡市 崇福寺/福岡藩黒田家墓所
福岡藩黒田家の歴代墓所。
・福岡県宗像市 早川勇顕彰碑
筑前勤王党の生き残り早川勇の顕彰碑。
・福岡県宮若市 犬鳴御別館跡
加藤図書が建設した藩主別邸跡。