法眼寺は松江市外中原町の曹洞宗寺院。
元々は松江城の建つ亀田山に所在し、
松江城の築城に伴い大橋川畔に移転。
その後の大火で伽羅を焼失し、
現在地に再移転しています。
この法眼寺の山門手前には、
大橋茂右衛門家の墓所があります。
「大橋茂右衛門家墓」。
大橋茂右衛門家は尾張津島の出身で、
大橋政貞の代で福島正則の家臣となり、
関ケ原の戦い等で武勇を轟かせました。
後に福島家が改易となると浪人となり、
初代藩主松平政直に招かれて、
6千石を賜わったとのこと。
以降は家老家として代々藩政を担当。
幕末の当主は山陰道鎮撫使への謝罪の為、
その証しとして切腹を決めていますが、
玄丹おかよの嘆願により救われています。
墓は筒状の合葬墓ですが、
明治以降の整理されたものでしょう。
「本堂」。
創立は約600年前とされますが、
享保18年(1734)の火災で寺歴を焼失し、
詳細な記録は失われているようです。
本堂は再移転の際に再建されたもので、
御殿造の優雅なもの。
本堂左脇に朝日丹波家の墓があります。
「朝日家之墓(右)」。
「被雲院殿妙應日節居士(中央)」、
「良心院殿宣應日貞大姉(左)」。
代々家老を務めた朝日丹波家の墓所。
朝日家の累代墓及び、
江戸時代後期の当主朝日郷保の墓と、
郷保の妻良心院の墓。
朝日家は徳川家康や結城秀康に仕え、
後に松平直政の家老となっており、
上記大橋家を含む松江六家として、
※その他は乙部、三谷、神谷、柳多。
代々家老を務めた家柄でした。
郷保は7代藩主松平治郷に仕え、
御立派の改革を主導しており、
破綻寸前の藩財政を好転させています。
また大火で焼失した法眼寺に対し、
自領の一角を境内地として寄進して、
現在地に再建させました。
歴代は累代墓として整理されても、
郷保夫妻の墓が残されているのは、
法眼寺再建の功労者だからでしょう。
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