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つづき。
二之丸は西側半分が少し高くなっており、
御殿に連結する御書院があったようです。
「西南の役の碑」。
8代島根県知事籠手田安定が、
浄財を募って建立した碑で、
西南戦争と県民の関わりを記したもの。
籠手田は元平戸藩士の剣豪で、
心形刀流と一刀正伝無刀流の免許皆伝。
山岡鉄舟に朱引太刀を授けられたという。
「興雲閣」。
城跡には場違いな西洋建築の建物。
松江市工芸品陳列所として建てられ、
明治36年に完成しています。
明治天皇行在所にも使用するつもりで、
華麗な装飾や彫刻が施されましたが、
結局は行在所にはなりませんでした。
後に嘉仁親王(大正天皇)が、
明治40年の山陰道行啓で使用。
その後は展覧会場、会合場、郷土館等、
色々な用途で利用されていましたが、
平成23年に閉館しており、
建設当時の状態に保存修理が行われ、
現在は一般公開されています。
「松江神社」。
初代藩主松平直政を主祭神とし、
徳川家康、7代藩主松平治郷、
松江開府堀尾吉晴を合祀する神社。
明治10年に楽山神社として創建され、
西川津町の楽山に社殿が建てられ、
後に松江東照宮を合祀して、
現在地に移鎮しています。
「本丸大手門」。
多聞櫓が連結する本丸の大手口。
ここからが有料です。
「天守」。
望楼型本瓦葺四重五階地下一階の天守。
南側に平屋の附櫓が付属します。
地下には井戸も残されており、
城郭建築では唯一の現存例。
鯱は木製の銅板張で高さは約2mで、
現存天守では最大のものですが、
現在設置されているものは、
昭和の修理の際に作り直されたもので、
旧鯱は内部に保管展示されています。
国宝指定の5つの現存天守のひとつ。
登城を終えてスタート地点へ。
最後に2つの銅像を見て帰ります。
「堀尾吉晴公」像。
大手木戸門跡の前にあります。
堀尾吉晴は豊臣秀吉の家臣で、
備中高松城攻め、山崎の戦い、
賤ヶ岳の戦い、九州征伐、
小田原征伐、九戸政実の乱等、
秀吉の主要な戦いに参陣して功を挙げ、
篤い信任を得ていたという。
秀吉の死後は徳川家康に接近し、
対立する諸大名の間を周旋。
家督を譲った息子の堀尾忠氏は、
関ケ原の戦いで東軍として功を挙げ、
隠岐及び出雲24万石を与えられ、
これが松江開府に至ります。
既に隠居していましたので、
初代藩主は息子の忠氏なのですが、
忠氏は入封後4年で死去しており、
孫の2代堀尾忠晴が幼少であった為、
実際の藩政を担っており、
松江開祖と見なされています。
「松平直政公」像。
三之丸跡である県庁前庭にある騎馬像。
大坂冬の陣に際して実母月照院は、
初陣の直政に「其方は家康公の孫で、
父結城秀康は名将なのだから、
卑しき母の子と後ろ指差されぬ為に、
全力で奮戦するように」と励まされ、
馬印を縫って与えられました。
これに奮起した直政は真田丸を攻め、
自ら矢面に立ったとされ、
従者の制止も聞かずに更に進み、
幾度遮られても矢面に立った為、
この様子を見た敵将真田信繁は、
その勇気と若武者ぶりを賞して、
櫓の上から軍扇を投げ渡しています。
この銅像はその直政初陣の様子で、
安来市出身の彫刻家米原雲海の製作。
幕末の松江藩は親藩であった為、
佐幕的な政治姿勢でしたが、
その態度は曖昧であり、
第二次長州征伐に出兵するものの、
積極的には戦闘に参加せず、
王政復古後も明確な態度を取らない為、
雲藩事件(松江山陰道鎮撫使事件)が発生。
鳥取藩は松江藩に恭順を勧めましたが、
山陰道鎮撫使西園寺公望が下向しても、
松江藩は伺候をしなかった為、
故意に鎮撫使を避けていると疑われます。
この為に家老大橋茂右衛門に対し、
四ヶ条の謝罪を要求。
その四ヶ条は、
一、雲州半国の朝廷への返上
一、重役の死を以っての謝罪
一、藩主稚子の入質
一、戦って勝敗を決する
これに対して大橋は国許で協議し、
大橋自身が死を以て謝罪する事に決定。
しかしこれは鳥取藩の取り成しもあり、
松江藩は罪を免ぜられており、
大橋の切腹も取り止めとなりました。
これにより松江藩は新政府に恭順し、
戊辰戦争では京都守備に兵を派遣。
同年には隠岐騒動が発生し、
隠岐で自治政権が発足しており、
これを松江藩が鎮圧していますが、
結局は鳥取藩と新政府の介入で、
隠岐の支配を手放しています。
【松江藩】
藩庁:松江城
藩主家:直政流越前松平家(雲州松平家)
分類:18万6000石、親藩大名(国持)
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前回訪問時の記事。
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松江藩松平家の歴代墓所。