松江藩は出雲国と隠岐国を領有した藩で、
堀尾忠氏が関ヶ原前哨戦の功績を挙げ、
浜松12万石から出雲24万石に加増。
しかし次代堀尾忠晴で無嗣改易となり、
代わって京極忠高が入封してきますが、
こちらも無嗣改易となってしまい、
※後に甥の京極高知が龍野6万石で再興。
代わって結城秀康の三男松平直政が、
18万6000石で松本藩から転封しました。
以後は幕末まで松江松平家が治めます。
※松江藩の直政流越前松平家は、
雲州松平家とも呼ばれています。
松江藩は早くから専売制を敷いて、
木蝋、朝鮮人参等の統制を行いますが、
財政は当初から苦しい状況が続き、
歴代が試行錯誤を繰り返してきました。
7代藩主松平治郷の時代に財政は好転し、
8万両の蓄財をするまでになりますが、
治郷は趣味の茶器収集に没頭してしまい、
再び財政難にあえぐ結果になりました。
9代松平斉貴は苦しい財政にも関わらず、
幕府に対して12万両の献金を行い、
相撲や鷹狩で財政をさらに悪化させ、
弘化3年の孝明天皇即位の大礼では、
将軍名代として京都に上洛しており、
盛大な行列を引き連れたという。
※その行列の壮大な様子は、
雲州公御上京御行列で確認できます。
挙句に斉貴は主君押込される事となり、
強制的に隠居させられました。
10代松平定安は津山藩からの養子。
斉貴の強制隠居により迎えられており、
藩主就任後は藩政改革に着手し、
兵制改革で最新鋭の装備や戦術を備え、
米国からも軍艦を購入しています。
松江藩が石州戦争に積極的であったなら、
長州藩は苦戦したかもしれません。
松江松平家墓所は市内月照寺にあります。
「月照寺」。
直政が生母月照院の霊牌を安置する為、
荒廃していた洞雲寺を復興し、
月照寺として復興させています。
以後は藩主菩提寺として藩の庇護を受け、
初~9代の歴代藩主墓所となりました。
「雷電為右衛門之碑」。
境内に入ってすぐにある石碑。
雷電為右衛門は大相撲史上最強の力士。
勝率は9割6分であったという。
雷電は松江藩お抱え力士だったようで、
石碑には雷電の手形もありました。
墓所は初代と7代のみ南側にあり、
その他の代は北側にありますが、
初代より代順に紹介致します。
「高真院殿前羽林次将
歡譽一空道善大居士
慶泰院殿心月租柶大姉」。
初代藩主松平直政と正室久姫の墓。
直政は結城秀康の三男として生まれ、
大阪夏の陣で華々しい戦功を挙げ、
家康に打飼袋を与えられています。
敵将真田信繁もその勇敢さを称え、
自らの軍扇を投げ渡したという。
上総姉ヶ崎藩1万石から、
大野藩5万石、松本藩7万石を経て、
松江藩に18万6000石で入封。
口達者な人物であったようです。
「寶山院殿前拾遺高譽元真道徹大居士
天稱院殿揚譽了日圓清大姉」。
2代藩主松平綱隆と正室亀姫の墓。
初代直政の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
相続の際に次弟松平近栄に広瀬藩3万石、
三弟松平隆政に母里藩1万石を分与。
財政は天災等で財政は悪化しており、
藩政改革を行っていますが、
逆に藩内は混乱する事となりました。
更に神主小野隆俊の妻に横恋慕し、
側室に迎えようとしますが、
これを隆俊が承知しなかった為、
無実の罪で島流しとしていますが、
妻は自害し隆俊は島で死去しており、
その後に綱隆も病死しました。
この突然の死に対して人々は、
隆俊の怨霊と噂したという。
「隆元院殿前拾遺光譽圓真道祐大居士
泰雍院殿真性妙顴大姉」。
3代藩主松平綱近と正室泰雍院の墓。
2代綱隆の四男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
先代よりの財政悪化に対し、
開拓や産業奨励等を行いますが、
好転するには至らなかったようです。
29年の治世の後に隠居しますが、
次代の松平吉透は早逝した為、
家督を継いだ甥で5代の松平宣維を、
自らの死去まで後見しました。
「源林院殿前拾遺真譽覺道俊巌大居士
清壽院殿覺譽松春林貞大姉」。
4代藩主松平吉透と正室清壽院の墓。
2代綱隆の五男として生まれ、
兄で3代の綱近の養嫡子となり、
養父となった綱近の隠居で家督を相続。
しかしその1年後に病死しています。
「善隆院殿前羽林次将
大譽寛海澄心大居士
幻體院殿真譽琢廌王光大姉
天岳院殿正譽妙哲香林禪定尼」。
5代藩主松平宣維と正室順姫、
及び継室岩宮の墓。
4代吉透の次男として生まれ、
父の死去により僅か7歳で家督を相続。
正室順姫は久保田藩3代佐竹義処の娘で、
初めて外様藩から迎えた姫でしたが、
僅か1年で病死してしまいます。
その後に伏見宮家から継室岩宮を迎え、
朝廷や幕府と良好な関係を構築。
しかし財政は婚礼資金に事欠く程で、
幕府より多くの援助があったという。
宣維は34歳で早世していますが、
岩宮は次代松平宗衍を産んでいます。
「天隆院殿前羽林次将
仁譽義満南海大居士
立信院殿江譽香雲〇光大禪定尼」。
6代藩主松平宗衍と正室常姫の墓。
5代宣維と継室岩宮の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
幼少の為に越前松平諸家が後見し、
藩政は家老による合議制が執られます。
成長後は親政を行っており、
小田切尚足を登用して改革を行い、
ある程度の成功は収めるものの、
藩内反対派の抵抗で改革は頓挫。
29年の治世の後に隠居しました。
「寿蔵碑」。
6代宗衍の墓前にある墓前碑。
巨大な石亀に碑が乗っている意匠で、
月照寺はこの寿蔵碑で知られます。
撰文は千社札考案者でもある萩野鳩谷。
碑文を書き終えた頃から狂気に走り、
自ら天狗と称して奇行を繰り返しました。
また小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、
自著知られざる日本の面影で、
この碑の石亀が夜な夜な動き出して、
松江城下を徘徊して暴れまわり、
「母岩恋し、久多見恋し」と、
泣き叫んだと紹介しています。
この寿蔵碑に使われた石は久多見石で、
神が宿る神石として祀られた大岩を、
碑石として切り出したものだという。
それで切り出された方の石は、
元の岩(母岩)が恋しいと祟ったとされます。
「大圓庵前出雲國主羽林次将
不昧宗納大居士
影楽院殿深譽儘淨霊壽大姉」。
7代藩主松平治郷と正室せい姫の墓。
6代宗衍の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続します。
慢性的な財政難は破綻寸前であり、
これに家老朝日茂保を用いて対処し、
新田開発、治水事業、特産品奨励、
倹約令等の様々な改革を行い、
財政を再建させて蓄えまで増えたという。
しかし茶人として高名な治郷は、
茶道の一派不昧流の始祖でもあり、
多くの茶器の名器を購入し、
散財して再び財政は悪化したようです。
雷電為右衛門が活躍したのは彼の治世。
「月潭院殿前出雲國主従四位下
侍従兼出羽守露滴宗潔大居士
月英院殿譽慈照壽覺大姉」。
8代藩主松平斉恒と継室英姫の墓。
7代治郷の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
16年の治世の後に死去しており、
父と同じく風流人であったという。
「直指庵殿前出雲國主従四位上
少将竹林瑶光大居士
林昌院殿繁譽芳顔貞〇大姉」。
9代藩主松平斉貴と正室光姫の墓。
8代斉恒の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続します。
松江藩主は代々道楽者が多く、
斉貴も財政難に関わらず道楽三昧。
肖像画に鷹が描かれる程鷹狩に勤しみ、
その散財に業を煮やした家臣ら一同に、
強制隠居させられてしまいます。
10代松平定安は津山藩より迎えられ、
道楽者の歴代と違って藩政改革を推進。
文武を奨励し洋式兵制も取り入れ、
更には女学校まで造っています。
定安の墓はここには無く、
東京の護国寺に葬られました。
小泉八雲がこよなく愛した月照寺。
静寂な雰囲気が心地よい場所でした。
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