浜田城自焼後の浜田藩③

つづき。
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浜田藩の退路。

浜田城から脱出した藩主松平武聴は、
7月18日に江津の和木浦にて、
松江藩籍の蒸気船第二八雲丸に乗り込み、
正室寿姫と世子熊若丸(2歳)ら親族と、
松江を目指しました。

出雲大社西側の杵築に上陸し、
7月22日まで滞在。
7月23日に松江に向かって陸路で出発し、
7月24日に松江に到着しています。
一方で藩兵の大半は陸路で移動し、
7月24日に杵築へ到着。
8月4日まで滞在して松江に向かいました。
松江藩家老三谷権太夫の下屋敷を本陣とし、
藩士らは松江城下の洞光寺徳泉寺円城寺
善光寺極楽寺別願寺善覚寺等に宿陣。
藩士家族らは美作の飛地へ向かいました。

武聴の実兄鳥取藩藩主池田慶徳の進言により、
寿姫と世子熊若丸は鳥取へ向かい、
鳥取藩の庇護を受けます。
幕府からは金千両、米千俵が下賜され、
それを家臣達に分配。
12月29日に蔵米2万表も追加支給され、
藩士らは失地回復の為に、
城下で武器の購入し訓練に励みました。

しかし将軍徳川家茂の死去及び、
孝明天皇の崩御が重なって、
喪に服せよとの達しがあり成長は停止。
浜田を奪還する道は完全に閉ざされます。
幕府からは自領へ移る事を指示され、
仕方なく飛地の美作へ向かうことになり、
3月20日より藩士の移動が始まり、
藩主武聴も3月22日に松江を出立。
3月26日には大庄屋福山元太郎邸に入り、
そこを本陣としました。
正室や世子も6月9日に美作に移りました。

藩名を鶴田藩と改め、
藩士全てが農家に下宿という中、
鶴田藩が立藩されることとなります。

つづく。

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