浜田城自焼後の浜田藩④

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ラスト。

鶴田藩として再出発した浜田藩でしたが、
実際の美作の領地は8000石余り。
藩士約4000人を養うには到底不可能でした。

重臣らは鳥取藩岡山藩両藩主の尽力で、
元の石高(6万1000石)に戻して貰うように、
幕府と交渉。
※幕府の命令で戦争し、
 幕府の命令で戦争を辞めた訳で、
 加増してもらっても良い位ですね。

とりあえず幕府は御蔵米7000石を支給し、
鶴田藩領に隣接する幕府直轄地が、
龍野藩の預かり地であった。
鶴田藩に与えられる手筈となりました。

ところがこれらの直轄地の庄屋達は、
6万石の台所を担うことはできないと反発。
同様に寺社年寄も編入に反対した為、
幕府領の鶴田藩編入は中止となります。
一方で京都鳥羽伏見の戦いが勃発し、
佐野鎮太郎伊藤梓ら藩士53名が、
幕府軍としてこれに参加。
5名が戦死、3名が負傷しましたが、
彼らが幕軍として参加した事により、
鶴田藩は朝敵となります。
この事態に城代家老尾関隼人が謝罪切腹。
新政府はその代償として2万7000石を与え、
石高はようやく3万6000石となって、
藩として成り立てるようになりました。

その後の明治2年。
藩籍奉還と共に2万4000石の加増があり、
石州戦争以前の石高に回復しています。

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