石州戦争において浜田城を自焼させた浜田藩。
その後の逃避行と新天地での立藩について。
大村益次郎の指揮する長州藩は、
破竹の勢いを持って浜田藩領を進み、
浜田城下にほど近くまで侵攻。
これに浜田藩を含む幕府軍(福山藩、紀州藩等)は、
浜田城下まで総退却しました。
慶応2年7月15日。
浜田藩より折居の長州軍陣地へ、
止戦の応接を求める書面が届きます。
7月16日。
長州軍はこれを了承し、応接場所を知らせるように返答。
浜田藩は浜田城と折居の中間に位置する周布村を希望し、
長州軍もこれを了承しました。
午後7時より交渉を開始されて、
詳細は家老が出席して交渉する事と決定。
7月17日。
浜田藩中老久松覚右衛門と、長州軍参謀杉孫七郎が会談。
長州軍より城下の諸藩兵の退去と、
浜田藩の趣意書提出の要求が出され、
久松は城へ要求を持ち帰って軍議が行われます。
軍議では要求を飲んで停戦か、それとも抗戦かの議論で割れ、
結果的に藩主松平武聴を浜田城から退去させ、
徹底抗戦することになりました。
夜半、密かに武聴や世子、夫人らが脱出。
※長州側の要求は、それほど酷ではないような気がしますが、
浜田藩側の資料では「要求が厳しく不調」となっています。
これは資料に残されていない酷な要求があったのか?
または趣意書提出を屈辱と感じたのか?
はたまた諸藩兵の撤退ということが無理難題だったのか?
真相はわかりませんが、とにかく交渉は打ち切られています。
7月18日。
城下の藩士や諸藩兵に藩主の脱出か知れ渡りました。
諸藩兵と浜田藩士らが議論した結果、
城を自焼させて一旦退いて再起を期すことに決定。
午後4時、浜田城から火が上がり、幕府軍は浜田から退去し、
武聴を追って松江に移動します。
※藩士らは退去後、陸路や船で唐鐘浦に集結し、
陸路で松江へ向かったようです。
城の方角からは火の手が見えたでしょうから、
藩士らは悔し涙に暮れたことでしょう。
浜田城の炎上は、郭内の武家屋敷まで燃やし、
そのほとんどが灰燼と化しました。
他の諸藩兵は、それぞれ退却しましたが、
城を自焼する羽目になった浜田藩士達は、
「撤退ではない。一時、態勢を整えるために
後ずさりしているだけだ」と、
涙を飲んで心に言い聞かせたとされています。
つづく。
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