白石正一郎のお伊勢参り①(下関から宮島へ)

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白石正一郎といえば、数々の志士達との交流や、
奇兵隊関連の記録を、事細かに日記に記しており、
幕末維新研究において欠かせない資料を書いています。

これは単純に筆まめな彼の性格の賜物であり、
志士や奇兵隊の事をわざわざ書いていたわけではなく、
ただ日記として書かれたものでした。
ですので日常の事柄も、当然のように書かれており、
当時の庶民の暮らしぶりもよくわかるものでもあります。

江戸時代には「一生に一度はお伊勢参りへ」という願望があり、
お蔭参り」と呼ばれるブームが3回も起きています。
有名な「東海道中膝栗毛」も、お伊勢参りの話でした。

白石もこの「お伊勢参り」に行っており、
旅をした安政3年当時の道中諸国の様子が、
日記に生き生きと描かれています。

長州にとってはまだ平穏であった安政3年当時、
44歳の白石は妻加寿子を連れてお伊勢参りに出発。
信仰心の厚い白石は、旅の可否を大歳神社にお伺いを立て、
どういう事でそういう風になったのかわかりませんが、
旅行は大変良い思いつきだという啓示があったようで、
喜び勇んで出発することになりました。

清末藩御用商人である白石は、藩へ許可を申し出ると、
差支え無しとのことで、願書を出して正式な許可を待ち、
準備をしながら、弟の白石廉作に留守中の事を頼んでいます。

6月10日~11日
許可が下りてさあ出発という段階で、天候が悪く出発が伸び、
出発したのは安政3年6月10日の夜。
その日は親類・縁者・近所の者が、旅のあいさつに訪れる。
堂島の渡し亀山八幡宮前)で乗船。
出航せずに過ごして翌朝に上陸して風呂に入り、
神拝(亀山宮?)した後、朝食を食べて再び乗船。
出航するが潮が悪いのか阿弥陀寺町でまた上陸。
網屋市左衛門があいさつに来たので、
船頭に路銀を預けた方が良いかと相談し、
預けたほうが良いとのことで、船頭に30両預ける。
夜になって母、義母など大勢がやってきて船中で酒宴となる。
※堂島の渡しから阿弥陀寺町までは、目と鼻の先。
 関門海峡の潮流は1日に4回変わりますので、
 出航できないということは無いはずです。
 母、義母などが阿弥陀寺町に来たという事は、
 わざわざ呼びにやったのでしょう。


6月12日。
午後2時頃、阿弥陀寺町の浜から出航。
追い風に恵まれて順調に船は走る。


6月10日~12日の行程。

6月13日。
順調に進んで夜明け前に上関を過ぎ、
日の出頃には周防大島の沖まで来て潮待ち。
そこから見える山々は、亀山宮から見える門司の風師山の様。
2里ばかり行って大島の瀬戸を通り、通津浦の北に上陸。
炎暑の中、海岸沿いを1里半歩いて岩国に到着。

錦帯橋を見物し、川辺の柳の下で歌を詠む。
にしき川あやおる浪の涼しきに
    夏の暑さもわすれ果てつつ

近くの茶屋でうどんを食べ、
1里半歩いてムロノキ村峠の2軒の茶屋で、
名物の力餅を売っているのを見た。
夕方、新湊に出て湯屋で入浴したあと乗船。
鯛2匹を買って酒宴に至り、船は宮島に向う。
※川辺の柳とは、錦帯橋脇の「巖流ゆかりの柳」か?
 名物の力餅ですが、調べてもわかりませんでした。
 新湊は現在の岩国市新港町の事でしょう。



6月13日の行程。

つづく。

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