つづき。
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お伊勢参りのはずが京都滞在がメインとなってますね。
7月27日。
いつもの興膳老人が用事があるので、
本日は一人で出かける。
脂小路上長者町下ルで茶壺を買う。
西陣の織屋を所々見物し、昼飯一盃してまた歩く。
ビロードを探すがなかなか良い者が見つからない。
歩くうちに一軒馴染みの店ができて、
そこが教えてくれた六軒屋西陣今出川下ルの、
わくや音吉の店に行く。おなんど和名天を一筋買った。
この男は目明し風で親方と称し、西役所付だという。
それから笹屋町の油屋十兵衛の店で、
白ねり一疋、綾の切れなどと買い、
その近辺の店で小切れをいろいろと買って帰った。
※おなんど和名天とは、灰みの暗い青色の別珍生地の事。
白ねりは真っ白い練絹の事ですね。
わくや音吉は、織物屋を営みつつ目明しをしてるようです。
7月28日。
珍しく妻と二人で北野天満宮に向かう。
妻はさわりがあって参拝せず。
天満宮に参拝した後、境内を通り抜けて平野神社にも参拝。
それから金閣寺を見物。寺号は北山鹿苑寺といい、
案内料は220文で10人まで同じ。
帰り道、西陣で昼食。昨日買い物した油屋十兵衛と同道して、
数件尋ね歩き、白ちりめん、白りんず、錦などを買い、
十兵衛宅にて素麺で一盃。世話になったので2朱渡す。
帰りに十兵衛を同道して、絹の練屋井筒屋籐兵衛の店に行く。
生絹を持ち込んで練りを頼んだが、練り商売も大変なようだ。
午後10時頃に帰宅。
※妻が参拝できなかったのは生理だったのでしょう。
当時は生理中の女性は参拝することはできませんでした。
金閣寺の拝観料も記されていますが、
10人まで同じという書き方から、
団体割引的なものがあったようです。
練りとは生絹を灰汁などで煮て柔らかくする工程。
京都の分業制の一部ですね。
7月29日。
終日ゆっくり休む。
昼前に興膳老人が有栖川宮様が歌の入門を許可してくれたという、
大徳寺の大綱長老の書面を持ってきた。
また、伊勢で知り合った藤田宰助が尋ねてきて酒宴となる。
藤田は夕方旅籠に帰り、興膳老人はひと眠りして夜に帰った。
8月朔日。
早朝、月代を整え諸神の御酒、御肴を供えて神拝。
興膳老人と共に大徳寺の歌会に行く。
入門のお礼に極上酒2升を持参。
入門についていろいろ相談したが、
宮様にお目見えすることはなく、
年々献上物は欠かさないようにという。
考えてみると遠国から献上するのは大変な事で、
宮様に入門するのは願ってもなき事なれど、
即答しかねるので帰国してから両親と相談することとし、
一旦断った。
※よくよく考えたら宮様には会えないし、
バカらしいと思ったのでしょうね。
8月2日。
外出せず。終日、家で歌を詠んですごす。
8月3日。
妻と由五郎を連れて北野天満宮、上鴨神社に参拝。
途中、井筒屋籐兵衛の店で練りりんすを受け取った。
留守中に興膳老人が来ていて、夜まで酒宴。
※先日、妻が参拝できなったので妻と一緒に北野天満宮へ。
優しい夫としての白石が垣間見られます。
8月4日。
三条通り柳馬場の飛脚屋明石屋清五郎が、
大坂三河屋金兵衛からの20両の手形を持ってきた。
手形は鴻池重太郎から伊勢屋弥太郎にあてたもので、
早速、三条烏丸上ルにある伊勢屋に受け取りに行く。
伊勢屋に三河屋へ金子の受け取りと、
長州蝋を売ってくれるように頼む。
妻と西陣へ。油屋十兵衛の案内で方々で買い物をする。
夜遅くなって十兵衛に送ってもらう。
※当然かもしれませんが、商売はちゃんとしてるんですね。
ビジネス出張も兼ねていたようです。
数々の買い物は、お土産なのか仕入なのかわかりません。
8月5日。
そろそろ帰るつもりで、準備にとりかかる。
大工を呼び、呉服物を入れる箱を作らせた。
興膳子息に字典の購入を依頼するため、
由五郎に3両2分を持って行かせる。
家の前にある書店俵屋清兵衛に書物を頼む。
西陣の油屋十兵衛が羽二重を持ってきた。一疋2両。
興膳老人が来て、宇治見物の道順を教えてくれた。
夕方、俵屋清兵衛が頼んでいた書物を持参。
興膳老人と3人で酒宴。
※今なら荷物を送るのはダンボールを買って入れますが、
当時はわざわざ大工を呼んで箱を作らせていたんですね。
8月6日。
夜明け前から起きて支度し、伏見街道を宇治へ向かう。
建仁寺まで行ったがまだ暗く、門は閉まっている。
大仏の下を通って東福寺見物。通天橋の紅葉が綺麗だった。
伏見稲荷へ参拝。大きな社である。
藤ノ森宮へ参り、狼谷を越えて万福寺見物。
宇治川沿いの恵心院を見物、宇治宮から興聖寺へ。
この寺は小さいながら至って良い寺地で、
道元禅師が住んでいたところだという。
宇治橋を渡って平等院へ。これも良い寺である。
宇治川を舟で戻り、伏見豊後橋に着く。
伏見街道を通って帰宅。
※宇治見物の行程。
東福寺には当時大仏があったそうです。
明治14年に焼失して現在は左手のみ残っています。
珍しくお寺を褒めていますが、
やはり名刹は寺社関係なく素晴らしいのでしょう。
つづく。
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伊庭は講武所剣術方として徳川家茂上洛に随行。