8月7日。
明日出立のつもりで荷物を片付け、支度をする。
俵屋清兵衛が書物を持ってきたので買う。
大塚屋新兵衛に家賃を払う。額屋嘉兵衛が額を持参。
西陣の油屋十兵衛も来た。
夕方、興膳老人と知人の弘正方を招いて酒宴。
深夜まで飲んだ。
※いよいよ出立が近づいてきました。
興膳老人の知人弘正方は、
国学者で「松崎天神鎮座考」「水門集」などの著者。
いったい興膳老人は何者だったんでしょうね。
8月8日。
出立の支度。高瀬の問屋を呼んで荷物を送るように頼む。
尼崎屋太七の宿まで、一貫400文渡す。
出立し、興膳老人宅へ暇乞いのために立ち寄った。
老人より弟の廉作と真兵衛宛てに手紙を預かる。
出立し三条を西へ進む。太秦の太子堂はどうということもなく、
近くに秦の酒公の宮があった。
北へ行くと妙心寺という大きな寺があり、
寺堂が多く宮様の御所もある。
そこから西へ行くと広沢の池だが、
干上がっていて大したことはなかった。
嵯峨野の町は寂れており、大覚寺の宮様の御所もあった。
清凉寺もどうということもない。
それから天龍寺へ行き、大堤川のほとりに出る。
有名な嵐山が川の向こう側に見え、渡月橋が掛かる景色は格別。
しかし、橋は粗末であった。
近くの法輪寺には虚空蔵菩薩があり、
毎春13歳になるものが多く参るらしい。
そこへは行かず、松尾神社、梅の宮へ参拝。
どちらも大きい社だった。
半里行くと桂の御所がある。三大名園に数えられる広い庭園だが、
一般人は拝見できない。万甚という宿に泊まる。
※興膳老人は白石の弟達に手紙を書いているところをみると、
家族ぐるみの付き合いなのでしょう。
秦の酒公の宮とは、大酒神社の事でしょう。
太子堂、広沢の池、嵯峨野、清凉寺、渡月橋と辛評が続きます。
現在の京都の名所も、この時期は寂れていたのでしょうか?
8月8日の行程。
8月9日。
田の畔道を通って向日神社へ参拝。相当の大社であった。
六人部美濃守を訪ねる。
鈴木重胤の西遊の事や、本田長慎の事なと色々と話しをして、
非常に楽しい時を過ごした。短冊2葉を貰う。
弘正方より託った伝言も伝える。
その後、長岡天満宮に参拝。渡し場から橋本に渡り、
山道を通って石清水八幡宮へ参る。
それぞれ大社であった。橋本に戻って昼食。
対岸の高浜に渡り、川沿いを1里ばかり下って高槻城下に入る。
芥川を通り服部古孝の宿に泊まった。
※六人部美濃守(是香)は、向日神社の神主で国学者。
平田篤胤の門下で、関西平田派の重鎮として知られました。
「顕幽順考論」「長歌玉琴」などの著者。
8月9日の行程。
8月10日。
ことのほか疲れたので月代を整えて昼まで休憩。
昼食に鰻と酒が出る。今日は精進の日だったが食べる。
古藤利兵衛という隠居の家に行き、酒や絹織の話を聞き、
道具を見せてもらった。
宿の主人は丁寧なもてなしをしてくれ、
今日も泊まる事を進められたが、先を急いでいるので断った。
出掛けに西瓜を出してくれ、土産の練ようかんをくれる。
乗場船宿まで案内してもらい、淀川を下って大坂八軒屋に着き、
さらに下って尼崎に着き、尼崎屋太七の宿に泊まる。
※信心深いはずの白石ですが、鰻と酒の魅力には負けました。
古藤利兵衛という隠居は、元織物職人とかでしょうか?
8月10日の行程。
つづく。
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伊庭は講武所剣術方として徳川家茂上洛に随行。