鶴田藩として再出発した浜田藩でしたが、
実際の美作の領地は8千石余り。
藩士約4千人を養うには到底不可能でした。
重臣らは鳥取藩、岡山藩の藩主の尽力で、
幕府に元の石高(6万1千石)に戻して貰うように試みます。
※幕府の命令で戦争し、幕府の命令で戦争を辞めた訳で、
加増してもらっても良い位ですね。
とりあえず幕府は御蔵米7千石を支給し、
鶴田藩領に隣接する龍野藩預かりの幕府直轄地を、
与えられる手筈となりました。
ところが、これらの直轄地の庄屋達は、
6万石の浜田藩の台所を担うことはできないと反発。
同様に寺社や年寄も、鶴田藩編入に猛烈に反対します。
彼らは嘆願書を江戸、京都、備前藩、津山藩などに送り、
結局、編入は中止されることとなりました。
一方、鳥羽伏見の戦いが勃発。
幕軍として佐野鎮太郎、伊藤梓ら53名の藩士が参加。
5名が戦死、3名が負傷しました。
鶴田藩兵が幕府軍として参加した事により、
鶴田藩は朝敵となります。
この事態に城代家老尾関隼人が謝罪切腹。
新政府はその代償として2万7千石を与え、
石高は3万6千石となって、
ようやく正式な藩として成り立てるようになりました。
その後の明治2年。
藩籍奉還と共に2万4千石の加増があり、
石州戦争以前の石高に回復しています。
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