①/②
松江城に行ったのは8年前。
その記事も相当古いものですので、
今回機会がありましたので再訪しました。
関ヶ原の戦いの功により堀尾忠氏が、
隠岐及び出雲24万石を与えられ、
出雲守護職の居城月山富田城に入城。
しかし月山富田城は山城であり、
藩経営には不向きであった為、
宍道湖北側湖畔の亀田山に築城し、
輪郭連郭複合式平山城が完成します。
城下町も整備されて発展しますが、
堀尾家は2代で無嗣改易。
代わって小浜藩より京極忠高が入封し、
忠高が更に城と城下を発展させますが、
忠高が嗣子なく死去して断絶しました。
※後に忠高の弟京極高和が再興。
そして結城秀康の三男松平直政が、
信濃松本藩より18万6千石で転封。
これより松平家が江戸時代を通じ、
松江藩を治めています。
※松江藩の越前松平家は、
雲州松平家と呼ばれています。
二之丸より散策。
「大手木戸門跡」。
往時には木戸の門があったようで、
その中に入ると馬留跡。
約46m四方の枡形の空間で、
井戸や水路もありました。
「松江城跡碑」。
明治43年建立の跡碑。
馬留跡の奥の大手門跡脇にあり、
雲州松平家13代松平直亮の篆額により、
松江藩の歴史が刻まれています。
馬留跡から大手門跡を通り二ノ丸下の段へ。
大手門は巨大な櫓門であったとのこと。
「二之丸下の段跡」。
米蔵が建てられていた二之丸下の段跡。
蓄えられた米は扶持米が主でしたが、
後に米蔵は造設されており、
多くの備蓄米が蓄えられたようです。
廃藩後は米蔵は取り壊されて、
運動場になっていたようで、
野球の試合も行われたという。
「二之丸への入口」。
城の上部へ続く石段。
大手門を過ぎて左手にある為、
防御的には心許ない気がしますが、
藩政の中枢である御殿へ行くには、
それ程苦にはならないようです。
太平の世の城と言った感じでしょう。
「二之丸跡」。
御殿の置かれていた二之丸跡。
敷地はそれ程広くないようですので、
いっそ二之丸下の段に御殿があった方が、
便利だし広かったのではないでしょうか?
松江城は天守を除く建物は払い下げられ、
その全てが撤去されていましたが、
二之丸の3つの櫓が再建されています。
「太鼓櫓」。
二之丸北東角にある太鼓櫓。
城内に時刻や号令を告げた太鼓が、
置かれていたとされています。
「中櫓(御具足蔵)」。
二之丸東側中央にある中櫓。
御具足蔵の別名から察するに、
武具等が保管されたと思われます。
「南櫓(御召蔵)」。
二之丸南東角にある南櫓。
この櫓だけが二階櫓となっており、
位置的に城下町が望めたようで、
御召蔵の別名から考えると、
藩主が城下を望んでいたのでしょう。
つづく。
①/②
■関連記事■
・島根県松江市 松江城
前回訪問時の記事。
・島根県松江市 月照寺/松江松平家墓所
松江藩松平家の歴代墓所。